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【書評・読書感想文】本にまつわるあれやこれや

『植物はそこまで知っている』が植物好きには堪らなく素晴らしい本だった

      2017/04/07

植物はそこまで知っている 感覚に満ちた世界に生きる植物たち (河出文庫)

 植物はただそこに生えているだけである。動かないし、喋らない。だから、関心のない人にとってはとことん関心のないものであろう。

 私たちが猫がそこにいることを認識するのは容易である。あちらから走り寄ってくることもあるし、鳴き声をあげることもあるからである。だけど、極めて寡黙な生き物である植物がそこにあることを認識するためには、こちらが意識して観察しなければならないのだ。

 しかしながら、植物は石ではない。植物は生きているのである。呼吸をし、光合成をし、成長する。冬を耐え、季節には花を咲かせる。そんな植物たちは、実は私たちが考えているよりも様々なことを感じているようである。

 その驚くべき生態を科学的根拠に基づいてわかりやすく紹介している書籍が『植物はそこまで知っている 感覚に満ちた世界に生きる植物たち』(ダニエル・チャモヴィッツ著/矢野真千子訳/河出文庫)である。

 

植物はあらゆることを感じている

 本書『植物はそこまで知っている』は植物の感覚に焦点を当てて書き上げられた書籍である。植物と人間は現在では生き物として違うものになってしまってはいるけれど、そもそもは20億年前には地球上に共通祖先がいた。そこから20億年をかけて植物は植物として進化を遂げ、人間は人間になるべくして進化を遂げてきたのである。

 従って、知能を持つ人間が優れていて動けない植物が劣っているという考え方は間違っている。『植物はそこまで知っている』の目次は下記である。

 
 1章 植物は見ている
 2章 植物は匂いを嗅いでいる
 3章 植物は接触を感じている
 4章 植物は聞いている
 5章 植物は位置を感じている
 6章 植物は憶えている

 

植物はあなたを見ている

 私がこの本を買ったきっかけは書店にて立ち読みした「1章 植物は見ている」の書き出しに衝撃を受けたからであった。

 植物はあなたを見ている。このことについて考えてみよう。
 植物は「植物にとって可視的な環境」をいつもモニタリングしている。植物は、あなたが近づいてくるのを知っている。あなたがそばに立って、見下ろしているのを知っている。青いシャツを着ているか、赤いシャツを着ているかも知っている。あなたが家の壁を塗り替えたことも、植木鉢を居間の片隅から別の場所に移したことも知っている。

 私はサボテン・多肉植物を育てるのが趣味であり、この本を買った3月上旬は防寒対策のために耐寒性の低い幾つかの植物を家の中で管理しているところだったのである。その同じ空間にいる植物たちが「私を見ている」というのである。「私が近づいてくるのを知っている」のである。この記述に大変に驚き、本書を携えて思わずレジに向かっていたという次第である。

 上記引用部分は、要するに植物は光を検知することができるということである。しかも、そのモニタリングはかなり高精度であるので光の加減によって「青いシャツを着ているか、赤いシャツを着ているかも」察知することができるというわけである。

 

植物は匂いを嗅いでいるし、触られたことを知っている。憶えてもいる

 植物は匂いによってコミュニケーションを取ることができるということも驚くべき事実である。外敵が襲来した際にはフェロモンを出して周囲における同種の個体に「警戒せよ」と伝達する。植物はエチレンガスを放出・検知することによって果実を熟させるタイミングを計っている。

 全ての植物は触られたことを知っているから、あまり私たちが触れすぎるとストレスとなる場合がある。植物は重力を感じることができるから、種や球根の状態がどうあれ、必ず根っこは下、芽は上に向かって伸びる。「冬に十分な寒さに当てないと花が咲かない」という植物があるということが、植物が憶えているということの証左である。

 ちなみに「4章 植物は聞いている」だが、本書においては「植物が聞いている」という科学的根拠はないと結論付けられている。

 
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植物愛に溢れる素晴らしき本書の「エピローグ」

植物への過剰な擬人化に対する警鐘

 植物は私たちが思っているよりもあらゆることを感じているということが本書『植物はそこまで知っている』では示されていて非常におもしろく興味深いのだが、特に私の心に残ったのは最後に添えられている「エピローグ」部分である。「おわりに」みたいなものである。植物にはあらゆる感覚があることを示してきた本文を踏まえて著者ダニエル・チャモヴィッツの個人的な意見が述べられている。

 
 1. 植物に知能があるかどうかはどうでもいいことだが、断言できることは植物が「知っている」ということである。しかしながら、「知っている」とはいえ植物は私たち個人を識別することはできないということを忘れてはならない。

 2. 私たちは往々にして植物にカビが生えているのを見て「つらそうだ」と言い、水をあげれば「気持ちよさそう」と言うけれど、それは私たち人間が勝手に想像したものでしかない。満開の花は萎れている花よりも「幸せだ」と思い込むけれど、私たち自身の幸せの定義が人それぞれであるように、植物にとって「満開=幸せ」とは限らない。

 3. 植物は苦しまないし、痛みを感じない。自身の尊厳を心配することもない。なぜなら脳がないからである。従って、植物に対する過度な擬人化は戒められなくてはならない。

 
 著者はつまり、植物と人間は同じ生き物であるとは言え、過剰な感情移入は無用であると述べている。例えば植物を故意に踏みつけた者を見た時に私たちは「植物がかわいそう」などと言うけれど、それは私たちが勝手に感情移入して勝手にかわいそうだと思っているだけであって、植物自身とは何の関係もないのである。もっと言えば植物には脳がないから、痛みも、苦しみももたらされることはない。何も感じていないのである。

 また、雑草は人間に踏みつけられ、駆除されることを逆に生存戦略とする植物の総称であるから、踏みつけられたりむしられたりすることが全ての植物にとって必ずしもネガティブであるということにはならないという考え方もある(参考:『たたかう植物』稲垣栄洋/ちくま新書)。

 

私たちは植物とどう関わればいいのか

 だけど、感情移入するということは進化の過程で培った人間特有の能力であるとも著者チャモヴィッツは言う。自身を他人になぞらえて感じる能力は人間のように高度な知能があればこそである。では、植物を見ながら私たちは自分自身をどう見つめればいいのか。

 まず、生き物の概念を、ゴリラやイヌだけでなくベゴニアやセコイアまで広げてみよう。満開のバラ園を眺めるとき、遠い昔の共通祖先に思いを馳せてみよう。いまでこそ、バラとヒトはどこからどう見ても違う生き物だが、一部に同じ遺伝子を保持し続けている。壁を這うツタを見たときには、太古の何かのできごとが、ツタと私たちの運命を分けたのだということを考えてみよう。20億年前に枝分かれした進化の道筋の、もう一つの可能性について想像してみよう。

 植物と人間には20億年前は同じ生き物だった。本書によれば、植物は音を聞くことはできないけれど、人間に聴覚障害をもたらす遺伝子がゲノム解析によってシロイヌナズナの中にも存在することがわかったというのである。確かに人間と植物は共通祖先から枝分かれし、お互いに独自に進化を遂げてきた長い歴史があるのである。

 そして、本書は次のような印象深い文章で締めくくられている。

 植物とヒトは共に、外的現実を感じ、知る能力をもっている。だが、それぞれの進化の道筋は、ヒトにしかない能力を与えてきた。植物にはない能力、それは知能を超えた「思いやる」という心だ。
 だから、あなたはつぎに公園を散歩するとき、ちょっと立ち止まって考えを巡らせてみよう。芝地に咲くタンポポは何を見ているのだろう? 道端の草は、何の匂いを嗅いでいるのだろう? オークの葉に触れた時には、木はさわられたことを忘れないということを思い出してみよう。木はあなたという個人を憶えておくことはできないけれども、あなたのほうは、その特別な木のことを、これからもずっと憶えていられる。

 

 
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