飄々図書室

【書評・読書感想文】本にまつわるあれやこれや

メンタルを強くするためのたった一つの恥ずかしい方法

      2017/10/24

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 
『解毒剤 ポジティブ思考を妄信するあなたの「脳」へ』(オリバー・バークマン、東邦出版)における第2章「恐れているほど悪くはならない」(P33-)は下記のような奇妙な書き出しで始まる。

 ある春の朝、ロンドンの地下鉄はいつものように「ちょっとした遅れ」が生じており、すし詰めの通勤客のほとんどは「あきらめ気分」になっていた。ただ一つだけ違ったのは、これから数分後に、私にとって一世一代のぞっとするような挑戦が待っていたことだ。電車がチャンスリー・レーン駅に近づき、自動アナウンスが流れる前に、満員の乗客に向けて「チャンスリー・レーン」と叫ぶことにしていたのだ。さらに、行く先々の駅でも到着前に同様に叫ぶというものだ。

『解毒剤 ポジティブ思考を妄信するあなたの「脳」へ』P34

 いきなり日常を突き破るような宣言がされていて意表を突かれると共に何を言っているのか俄にわかりづらいのだが、地下鉄に乗っている著者は次の駅に着く前にその駅名を声高に叫ぼうというのである。日本で言えば、山手線が次の新宿駅に着く前に「新宿!」と車内をつんざく大声で叫ぶと思ってもらえれば想像しやすい。

 念のため補足しておくと、著者のオリバー・バークマンは狂人ではない。ケンブリッジ大学卒業、「世界で最も影響力のある新聞」とも表される英国ガーディアン紙の専属記者であり、同紙における心理学的内容を扱ったコラム(『HELP! 最強知的”お助け”本』として書籍化)は人気を博している。

 なぜそんな理知的で優秀な人物が「電車の中で駅の名前を叫ぶ」などというあまりにも狂気に満ちた行動をしつつあるのだろうか。『解毒剤 ポジティブ思考を妄信するあなたの「脳」へ』より引用しつつ解説していこう。

 

ポジティブシンキングは万能か?

 本書『解毒剤』はその副題「ポジティブ思考を妄信するあなたの「脳」へ」が示す通り、世に跋扈するポジティブシンキングへの懐疑がテーマとなっている。

 本書で紹介されているポジティブシンキングにおける誤謬例の一つは「目標を強く思い描けば、実際に目標に到達できる」というものである。「こうありたいと強く願えば、実際にそのような人物になることができる。逆に、自分は駄目な人間だと思ってしまえば、実際にそうなってしまう。だから、成功するためには成功する自分のイメージを常に思い描くことが重要である」という言説は自己啓発マニアでなくとも聞いたことがあるに違いない。いかにも説得力のある力強い考え方だ。

 だけど、誠に逆説的なことに、そのエネルギッシュな考え方は万能ではない。心理学者ガブリエル・エッティンゲンは「物事をうまく進行させようと考えて過ごす時間やエネルギーが長ければ長いほど、当事者の達成意欲は削がれていく」(P38)というポジティブシンキングの瑕疵を実験によって示した。

 目標を強く思い描くこと自体は間違いではないであろうけれど、その考え方には、目標を思い描くことだけで満足してしまって「実際に目標に向かって取り組む意欲を削いでしまう」危険があるということである。あるいは、順調に進捗しているときはいいけれど、何らかの要因によって進行が頓挫してしまうと必要以上のショックを受けたり、立ちどころにモチベーションがゼロになってしまったりするリスクもある。ポジティブだけを思い描き続けることは必ずしも正解であるとは言えないのだ。

 

最悪のシナリオを想像せよ!

 それでは逆に、極端にネガティブに物事を捉えればうまく行くのかと言うと、必ずしもそうではない。「何事もうまくいくはずない」とくよくよとして何も行動を起こせないのも問題である。

 だけど、ネガティブが無用なものであるとは言えない。状況を客観的に見つめ、理性的に判断するためにネガティブの力を利用することで逆に不安を取り除き、心の平静を保つことができる。つまり「最悪のシナリオを想像し、それに向き合うこと」である(本書中では「ネガティブ・ビジュアライゼーション」「悪事の熟考」として紹介されている、P45)。

 最悪のシナリオを想定することには2つのメリットがある。

1. 今を生きることができる

 人の幸福が長続きしない現象は「ヘドニック・トレッドミル(快楽のウォーキングマシン)現象」と呼ばれている。人は幸せを求めてランニングマシンの上を走っているようなものであり、いくら走っても永久に目的地には到達できないという皮肉が込められている。

 当初はどんなに素晴らしいと思っていた仕事も、どれほど欲しがって手に入れた物も、どれほど熱烈に好きで始まった交際も、喜びを感じられたのはほんの一瞬で、後は幸福感が減退していき退屈な日常に戻っていく。誰もが経験のあることだろう。

 そこに「最悪のシナリオを想像し、それに向き合うこと」を取り入れてみる。すると、幸福感の消尽は克服され今を精一杯楽しむことができるのである。ここで言う「最悪のシナリオ」とは「自分にとって価値のある者はやがてなくなるだろう」と絶えず意識し続けること。自分の愛する人だって明日突然に死んでしまわないとも限らない。そう考えれば今日共に過ごす一瞬一瞬が価値のあるものとして輝き出す。

 極端な話、自分だっていつ死ぬかわからないのであり、それが明日とも限らない。そう考えれば今日を精一杯生きることができるというわけだ。

 

2. 恐れているほど悪くはならない

 「最悪のシナリオを想像し、それに向き合うこと」の2つ目のメリットは、物事は想像しているよりも悪くはならないことを実感できることである。

 楽観主義の瑕疵については前述の通りである。例えば、不安に陥っている友人に「そんなに最悪なことにはならないから大丈夫だよ」と安心させることは一時的な気休めになりさえすれ、不安を増幅させることにも繋がり得る。それはもし実際に「最悪なこと」が訪れたら大惨事であると言っていることと同義だからである。

 そこで「最悪のシナリオにはならないと考える」のではなく「最悪のシナリオを想像する」という逆説的な手段が有効になってくる。「恋人に振られることにはならない」と考えるのではなく「恋人に振られたらどうなるか?」と想像し、そのシナリオと深く向き合うことである。別れることとなったら一生深い悲しみに押し潰されながら惨めに生きていくことになるだろうか。別れたことがきっかけとなって友だちや自分の趣味を失うことになるだろうか。悲しみのあまり食事も喉を通らず餓死することになるだろうか。答えはノーである。

 そう、別れは悲しいことには違いない。けれど、「物事が実際にどれほど悪くなるものか、じっくり考えてみるといい。そうすれば、あなたが直感的に恐れていることが現実離れしていることに気づくはずである」(P47)。

 

ネガティブな感情は私たちがそれを選んでいるに過ぎない

 不安、怒り、悩みなどのネガティブな感情があって、私たちはそれらに苦しめられることがある。だけどそれは「不安」という確固たるものが眼前にあってそれに殴られて苦しめられているわけではない。私たちは自らの意志で不安になることを選び取っているから不安になるのである。

 例えば、事業が失敗して莫大な借金を抱えてしまったというケースを考えてみよう。ある人は「人生終わった、もうだめだ」と考えるかもしれないけれど、同じ状況でも「自己破産してサラリーマンとしてやり直そう」と考える人もいるだろうし、「いい勉強になった、ピンチはチャンスだ」と再び事業を起こそうと考える人もいるだろう。

 つまり、不安や怒りは単なる幻想に過ぎない。肝要なことは、私たちの気の持ちようである。他人や世界を変えることはできないけれど、私たちは唯一自分の考え方や判断、信念を変えることはできる。

 それは考え方をポジティブに激変させるというよりは「恐れているほど悪くはならない」と冷静に現状を認識することである。

 

「恐れているほど悪くはならない」ことを体験してみること

 前述の通り「最悪のシナリオを想像し、それに向き合うこと」によって「恐れているほど悪くはならない」ことが理解でき、心の平静を保つことが可能になる。それはポジティブシンキングでは到達できない境地だ。

 そして、それを一歩推し進めた考え方をローマ帝国の哲学者セネカが提唱している。つまり「最悪の事態を実際に体験してみる」ことである。

「もしあなたの一番恐れることが物質的財産を失うことであるなら、そのような事態が将来決して起こらないだろうと思いこむのはやめて、逆に、もう既にすべての富を失くしてしまったものと想定して行動してみなさい。何日か期間を決めて、その間ごくわずかの貧弱な食事と粗悪な衣類ですごしてみなさい。そして自問するのです。『これが私の恐れていた状態なのか?』と」

『解毒剤 ポジティブ思考を妄信するあなたの「脳」へ』P48

 「最悪の事態というのは、通常、誇張された恐怖心が生み出す信念なのである」(P62)。私たちの主観は世界を正しく捉えることができない。時に事態を徒に誇張し、時に不合理に判断してしまう。必要以上に不安になったり恐れたりしないためにはその不合理に気付き、是正し、合理側に寄せていく必要がある。

 そのための最も過激にして効果的な方法が「最悪の自体を実際に体験してみる」こと、本書で言うところの「恥かき訓練」(臨床心理学者アルバート・エリスが考案)である。敢えて公衆の面前で主体的に恥をかく行動を起こすことによって「想像していたよりも悪いことにはならない」ことを体感するためのものである。

 こうして本書の著者オリバー・バークマンは地下鉄に乗った。「恥かき訓練」を自ら試してみるために。駅の名前を大声で叫ぶために。

 

著者の「恥かき訓練」の結果

「チャンスリー・レーン」
 私は大声で言葉を発した。

『解毒剤 ポジティブ思考を妄信するあなたの「脳」へ』P65

 結果、どうなったか。――何も起こらなかった。

 新聞を読んでいた紳士が目を上げて一瞬こちらをちらりと見たものの、軽蔑するような表情ではなかった。「何かわずらわしいことが起こるのではないかと内心期待していたのだった――少なくとも、冷笑が湧き起こるとか――ところが、何も起こらなかった」(P65)。

 列車は何事もなかったかのようにチャンスリー・レーン駅に停まり、発車した。次のホルボーン駅への車中でも著者は叫んだ。「ホルボーン」。――だけど何も起こらず、列車はいつもどおりに運行していた。最悪の結果――例えば、警察を呼ばれるとか、強制的に下車させられるとか、怒った乗客に暴力を振るわれるとか――は実際に起こることはなかった。

 今、私の裁量で考えられることは、当初恐れていた気まり悪さがいかに不合理な考えに基づくものであったかということだ。その不合理な考えとは、もし私が人々に悪く見られると、それは耐えがたい不快なものになるだろうと予想したことである。ところが真実は、人々が外見上まったく軽蔑的でも敵対的でもないということだ。(略)そんな私に、車内の誰も興味を持っているようには見えなかった。

『解毒剤 ポジティブ思考を妄信するあなたの「脳」へ』P66

 このように著者の突飛且つ勇気ある行動によって「最悪のシナリオを想像する」というある種ネガティブな地点をスタートとすることが、どんな事態も「恐れているほど悪くはならない」と達観し、平静を保つことができると証明されたのだった。それは、何かに必要以上に不安になったり、パニックになったりする必要はないという圧倒的な事実を私たちに示している。

 
関連記事:
【書評】自己啓発本の嘘・欺瞞を成敗する『HELP! 最強知的”お助け”本』オリバー・バークマン【著】

自己啓発書嫌いのための「ひねくれ」ビジネス書5冊+α

 - 自己啓発書批評