飄々図書室

【書評・読書感想文】本にまつわるあれやこれや

「終わり良ければ全て良し」が本当は間違いである理由

      2017/11/28

「終わり良ければ全て良し」という諺には希望がある。それは例えば、「今はつらいけれど乗り越えた先にはきっと大団円が待っていて、臥薪嘗胆の日々が報われる」というようなニュアンスで用いられることが多い。

 もちろん、間違いではないだろう。努力が実れば嬉しい。誠実さが認められれば誤解が解けることもある。苦悩のトンネルに光が差し始め、希望が見えた時の快感・安堵は何物にも代えがたいものである。

 しかし、それが錯覚であるとしたら。そう、「終わり良ければ全て良し」というのは単なる主観に基づくものであり、本質や合理性とは無縁の直感的な判断に過ぎないとしたら。

 ノーベル経済学賞受賞者であるダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』(ハヤカワNF文庫)では、主観や直感のもたらす誤謬について膨大な事例が非常にわかりやすく紹介されているが、その中で「ピーク・エンドの法則」「持続時間の無視」として「終わり良ければ全て良し」が誤りである事例について紹介されている。詳しく見ていこう。

 

終わり悪ければ全て悪し?

 極端な例を挙げよう。下記は「伝説の投資家」と名高いジェシー・リバモアの生涯である。これは素晴らしい人生だろうか、それとも悲劇の人生だろうか。

    *

 1877年、貧しい農家に生まれたジェシー・リバモアは14歳で投資の才能を開花させ、2年間でたった5ドルを元手に1000ドル超を稼ぎ出した。次にはそれを元手にニューヨーク証券取引所で勝負するがあえなく失敗し一度目の破産を経験する。

 その後リバモアは徹底的に市場原理や投資のセオリーを学ぶ中で成功と失敗を繰り返した。300万ドルの大金を手にした翌年に100万ドルの借金を抱えるなど、波乱万丈であった。1929年の大恐慌では相場の下落を先読みして1億ドルを超える利益を手にした(大恐慌の引き金を引いたのがリバモアであるという説が有力である)。それはリバモアの絶頂期だった。

 しかし、その後は精彩を欠くと共に不幸が続いた。1932年には二人目の妻ドロシーと離婚、1933年には失踪騒ぎ、1934年には破産申請が受理され、「もうだめだ」との遺書を残して1940年にリバモアはピストルで自殺、その生涯を閉じた。

(参考文献:『伝説の7大投資家』桑原晃弥、角川新書)

 
 私はこれを読んだ際、悲劇的な人生だと思った。人生の中で栄光を手にしながら最後には不幸のどん底で自ら命を断ってしまうなんて不幸な人生だ、と。恐らく殆どの人がそう感じるに違いない。疑問の余地はないように思える。

 だけど、リバモアの人生は本当に不幸だったのだろうか? それは錯覚ではないのか?

 

たった一度の雑音で全てが台無しになるか?

『ファスト&スロー』のダニエル・カーネマンによれば、私たちの中には「経験する自己」と「記憶する自己」の二つの自己が存在するとしている。私たちの直感は「記憶」を優先して物事を捉えてしまいがちで、「経験」を蔑ろにしてしまいがちだという。そしてそれは不合理なことであると断罪する。本書では非常にわかりやすい例が示されている。

 四〇分におよぶ長い交響曲をうっとりと聴いていた。ところが曲の最後のほうでCDに傷があったらしく、ひどく耳障りな大きな音がした。そこで、「せっかく楽しんでいたのにぶちこわしになった」というのだ。だが経験が実際に壊されたわけではない。壊れたのは記憶だけである。

『ファスト&スロー(下)』P267-268

 せっかく音楽を聴いていたのに雑音が入り込めばどんなに素晴らしい音楽だったとしても誰でも不快になるだろう。だけど、よく考えてみればCDの傷に起因するたった一度の雑音によって、作品全体の評価を下げてしまうことは理不尽なことではないだろうか。雑音が発生する以前においては確かにうっとりするような素晴らしい時間を「経験」していたはずなのに、一度「ひどく耳障りな大きな音がした」という「記憶」だけでその経験をなかったことにしてしまうのは、果たして正しい選択と言えるのだろうか、というのがここでの問題提起である。

 

「ピーク・エンドの法則」と「持続時間の無視」

 だけど、私たちがたった一度の「ひどく耳障りな大きな音」によって、それを「ひどい体験」「全てが台無し」と考えてしまうのは確かである。それはなぜなのか。

 
 例を挙げよう。被験者を二つのグループにわけて、痛みを伴う実験に協力してもらう。

 
実験A…実験時間は10秒。痛みが最大のところで実験が終了する。

実験B…実験時間は30秒。最初の10秒間は実験Aと同じ痛みを引き受けるが、その後緩やかに苦痛は減少していき実験が終了する。

 
 あなたならAとBどちらを選ぶだろうか。当然ながらAに決まっている。なぜなら痛みのピークは同じなのだから実験時間が短い方がいいに決まっているからである。どう考えてもその方が合理的だ。

 しかし、実際にはそうはならない。被験者に実験Aと実験Bを体験させた後に「実験Aと実験B、もう一度やるならどちらがいいですか?」と尋ねるとなんと80%の被験者が「実験B」つまり苦痛の長い方を選ぶというのである(前掲書:P270)。誠に信じがたいことだが、あなたも私も同じ実験に参加したら恐らく「実験B」を選択してしまうはずだ。

 
 なぜこのようなことが起こるかというと「ピーク・エンドの法則」と「持続時間の無視」によって私たちが錯覚を起こしてしまうからであると説明されている。

 
ピーク・エンドの法則…ピーク時と終了時の苦痛の平均が印象として私たちの中に記憶される。つまり、痛みが最大のところで実験が終わると「痛い実験だった。不快だ」と記憶されてしまう。それに対して、ピーク時の苦痛は同じでも痛みが少ない状態で実験が終わると「痛かったが、実験Aよりはマシだ」と記憶に残る。

持続時間の無視…苦痛の持続時間は殆ど記憶されない。つまり、実験Aは10秒・実験Bは30秒であり実験中は苦痛が与えられるが、その苦痛の継続時間は私たちにとって殆ど印象に残らない。

 
 このような不可思議な心理現象によって私たちは「実験Aは最悪だった。実験Bのほうがマシだ」と錯覚してしまうのである。つまり、「経験」よりも「記憶」が重視されてしまい、不合理な判断を下してしまうのだ。

 

終わり良ければ全て良し?

 記憶する自己が過去の出来事を評価するやり方は、時間を無視するという点で、意思決定の参考にするにはあまりにもお粗末である。私たち人間にとって、時間は究極の有限のリソースである。これは重大な事実であるにもかかわらず、記憶する自己はこの事実を無視する。

『ファスト&スロー(下)』P315

 私たちの直感は「最後の瞬間が全てを決める(ピーク・エンドの法則)」「経験としての時間を無視してしまう(持続時間の無視)」という偏った判断をしてしまう傾向にある。それは私たちの脳がそのように出来ているからである。

 しかし、上述のように、音楽の最後の部分に雑音が入ったからといってその作品全体を悪評してしまうのはあまりにも偏った見方だし、もっとわかりやすい例では、実験Bを選んでしまうのは馬鹿げていることがわかる。

 
 そのように考えると、冒頭で述べた伝説の投資家ジェシー・リバモアの人生も見方が変わってくる。リバモア本人が自分の人生についてどう考えている(いた)かはさておき、晩年の不幸だけをあげつらって「悲惨な人生だった」と人生全体を評価してしまうのは疑問の余地があることがわかる。

 逆も然りである。不遇だったけれど、最後の瞬間だけ報われたという人生を私たちは感動的なストーリーとして捉える傾向にある。もちろん、それは感動的である。だけどそれは本質とは大きく乖離しているかもしれないことを私たちは念頭に置く必要がある。私たちの人生のあらゆるシーンにおいて、最後の瞬間にだけ焦点を当ててしまうことは間違った判断を誘発しかねないのだ。

 
 とすれば、「終わり良ければ全て良し」(あるいはその逆「終わり悪ければ全て悪し」)というのは私たちの単なる直感であり感想に過ぎないことがわかる。「終わり良ければ全て良し」のストーリーは確かに感動的だけれど、「終わり良ければ全て良し」を志向することは私たち自身の人生の最善の意思決定とは関係ないのだ。

 
 私たちが何かを判断・行動するにあたっては瞬間の快感を重視し、瞬間の苦痛を必要以上に恐れてしまう傾向にある。つまり、記憶を重偏してしまうということだ。

 その見方は、ともすれば「緩やかな幸せ」や「鉛のような長時間の苦痛」つまり、時間や経験を軽視してしまうことになりかねないという警鐘である。もちろん人生とは記憶と同義であるが、あまりにも記憶に頼りすぎると実験Bを選んでしまう人のように誤った選択をしかねないのである。

 

まとめ:最低最悪の記憶は、最低最悪の経験ではない(のかもしれない)

 私は新卒で入社した会社を2年半で辞めたが、それは考え得る最低最悪の記憶として残っている。

 だけど、よく考えてみればその2年半の全てが最低最悪ではなかったことに気付く。同僚とふざけ合ったこともあったし、それなりに恋愛もしたし、引っ越しを伴う異動は嫌だったけれど今思えば良い経験になっている。ただ、最後の半年間で体調を崩してしまいひどい会社の去り方をしてしまったので、その2年半の全てが悪夢のような記憶として錯覚を起こしているに過ぎないのかもしれない。

 そう考えるとそれは、まさに「最後の瞬間が全てを決める(ピーク・エンドの法則)」「経験としての時間を無視してしまう(持続時間の無視)」による誤った判断だ。

 恐らく他にも嫌な記憶として残っていることでも、実際にはそれほどひどい経験じゃなかったことがあるのだろう(逆もあるだろうけど)。人生ときちんと向き合うためにも、記憶だけに頼るのは危ういのかもしれないと、本稿を書きながら思った。

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