クラフト・エヴィング商會の入門書『ないもの、あります』

ないもの、あります (ちくま文庫)

 「舌鼓」を知っているだろうか。
 美味しいものを食べた時に打たれると言われるあれである。
 会話的というよりは文学的な表現であるため、日常会話ではあまり使わないであろうものの、「舌鼓」という言葉は聞いたことがあるだろうし、気づかぬうちに打ってしまったこともきっとあるだろう。

 それでは「舌鼓」とやらを実際に見たことがあるだろうか。
 恐らく、私を含めた殆どが見たことはないと思われる。
 しかしながら、本書『ないもの、あります』には、それがあるのだった。

 そこで今回、ここに御紹介いたします<舌鼓>は、ごらんのとおり「西欧料理対応」の新製品であります。
 これまでの、羽織袴姿で、肩に乗せた鼓を打つ「純和風」タイプのものを、思い切って「西洋鼓笛隊の少年」仕様にしてみました。これなら、180円のハンバーガーにですら舌鼓を打てるようになるはずです。

 クラフト・エヴィング商會『ないもの、あります』の指針は単純明快である。

 よく耳にはするけれど、一度としてその現物を見たことがない。
 そういうものが、この世にはあります。
 (略)
 わたくしどもクラフト・エヴィング商會は、ここに新しい看板を掲げることに致しました。題して、「ないもの、あります」。
 この世のさまざまなる「ないもの」たちを、古今東西より取り寄せまして、読者の皆様のお手元までお届けいたします。

 「転ばぬ先の杖」「堪忍袋の緒」「左うちわ」「冥土の土産」「相槌」「他人のふんどし」など、「ないもの」のコンセプトに基づく商品26点を簡単な紹介文とノスタルジックなイラスト付きで掲載している。
 その語り口は、時に皮肉っぽくもありながら優しく平易である。
 クラフト・エヴィング商會の文章は、現在、小説家としても活躍している吉田篤弘によるものであるが、この人の書く文章が私は好きだ。どこでもない架空の世界を構築させたら天下一品。リアリズムとファンタジー、或いは、リアリズムとノスタルジー、理屈と屁理屈の隙間にありそうでないような世界観を事細かに作り上げる天才だ。
 そこに、これまた細かなイラストや写真などが盛り込まれるのがクラフト・エヴィング商會の著作としての大きな特色である。唯一無二の独自の世界が、たった一冊の本の中に広大に広がっている。
 装丁もこだわって作られているようで、非常に美しい。ひとつの作品集と言ってしかるべきであろう。

 クラフト・エヴィング商會の代表作『クラウド・コレクター』は大変素晴らしい作品だが、イラストは少なめの長編小説であるため、その世界観に没入してみたいものの少し気乗りのしない読者もいるかもしれない。
 それに対し『ないもの、あります』は、テーマが身近なものを扱っていること、短く洗練された紹介文、わりと多めのイラストレーションと、クラフト・エヴィング商會の入門書としてはうってつけであると思う。現に私も、この『ないもの、あります』を最初に手に取ったのだった。

「おう、どうした」
 そう言って、黙ってうなづき、後輩の目をしっかりと見据えます。それとなく余裕も見せなくてなりません。そうして、一瞬の隙をつき、ポケットからおもむろに本商品<先輩風>を取り出すのです。
 取り出したら、素早く、
「しゅっ」
 と、吹かせます。
 (略)
 さりげなく「まったく、そうだよな」とか、「しょうがねぇなぁ」なんて言ってみたりしましょう。
 そして、すかさず「しゅっ」です。
 豪快に笑うことも忘れずに。思いきり「わはははは」と笑いましょう。
 ただし、あんまりいい気にならぬよう。たしかに人は誰もが「先輩」ではありますが、同じように、人は誰もが「後輩」でもあるからです。

 たかだか一枚のうちわではありますが、驚くほどの値がついています。
 あるいは、このうちわ一枚を手に入れるために、財産のすべてを投げうっていただくことになるかもしれません。
 それだけに品質は極上。
 これ一枚で、遊んで暮らすことができます。
 (略)
 本商品はいったん購入されましたら、常時パタパタとあおいでいただくことになっています。あおぐ手をひとたびでも止めてしまいますと、当然ながら<左うちわ>の状態を維持できなくなり、ただの遊び人、ごろつき、世捨て人とみなされてしまいます。
 もちろん、寝る間もありません。
 冬の厳寒時においても、ひたすらあおいでいただきます。
「ああ、左手が疲れた」
 と、ぼやいても、右手に持ち替えることはできません。
 うっかりしますと、<左うちわ>のつもりが、「左前」になってしまいます。
 御注意を。

 
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