飄々図書室

【書評・読書感想文】本にまつわるあれやこれや

退屈と暴力、デモと暇つぶしに思うこと『退屈の小さな哲学』ラース・スヴェンセン【著】

      2016/04/30

退屈の小さな哲学 (集英社新書)

 かつて、格闘技ブームというのがあった。2000年頃のことだろうか。
 年末に民放各局が争うように、こぞって格闘技番組を放送していたのである。
 私はことさら格闘技には関心がなかったので、その熱狂を傍目に捉えていた。そのブームを不思議に思って眺めていた。
 数年の後、人々も飽きたのだろう、ブームは終わったらしく、その熱狂は沈静化した。

 とはいえ、なぜここまで格闘技は熱狂的支持を得ることができたのだろうか。
 そこには恐らく、「退屈」と言う問題が横たわっている。

 

哲学者ラース・スヴェンセンにとっての退屈

 ノルウェーの哲学者ラース・スヴェンセン『退屈の小さな哲学』によれば、神への信仰を捨て、労働が生活の基本になった現代は、我々にとって退屈が極めて身近な問題になった時代なのだという。

 我々が退屈を解消したがっているようであるのは確かである。
 暇を潰すために、ステレオタイプなドラマツルギーで構成されたハリウッド映画を観たがるのであり、別におもしろくもないお笑い番組を「おもしろい」と言って眺めるのであり、一発屋芸人を生み散々褒めそやした末に飽きて見捨てるのであり、友人たちと戯れに興じるのであり、流行に乗るのであり、あるいは、労働に打ち込むのである。

 これらの営みは、退屈の時間を忘れさせてくれる事象にはなり得るものの、退屈を消し去ることに直接繋がりはしない。単なる時間潰しであり、その時間が過ぎれば再び虚しさが去来するのである。
 特に近代化社会における労働は人間の機械化に他ならず、退屈を創出する起源なのであり、それにのめり込んだからといえども、決して退屈を抹殺することはできない。

 

退屈と暴力

 同様にして、我々はニュースなどで流れる凶悪犯罪や衝撃映像に関心を抱くのだが、これらは「暴力」というカテゴリーに分類できる。暴力という刺激を受けることでそれを解消しようとする試みの表れである。
 退屈は極めて退廃的なものであり、退屈を解消するためならどんな戦争や惨事が起こってもそれを許容できると、我々は心の内に思っている。
 退屈の時代にあっては、暴力は「面白い」以外の何物でもない、というのがラース・スヴェンセンの主張だ。

 僕たちは、新聞がセンセーショナルに書き立てる「都会の犯罪」や「無分別な暴力」に興味を抱くのだ。暴力のない人生は退屈だといわんばかりではないか。

 いずれにしろ暴力は「面白い」。(略)退屈の結果、ほとんどすべてが魅力的な代替案に見え、心のなかで、新しい戦争や悲惨な大事故が世界で起こればいいと思っても許されるまでになっている。

 

格闘技ブームとは何だったのか

 そこで、かつての格闘技ブームである。
 暴力は、我々の日常においては許されてしからぬものであるが、格闘技においては違う。リング内でのみ許された暴力により対戦相手をねじ伏せ、それにより勝敗が決まる。
 相手を殴り、蹴り、相手をふらつかせれば観客は湧き立ち、叩きのめした末にダウンをとった際、それは最高潮を迎える。

 恐らく、我々が格闘技を見る視線は、ニュースで凶悪事件や衝撃映像を見る視線と同じ種類のものである。退屈に刺激を与えるために、必然的に行われる暴力を眺め、熱狂しているのである。
 殴られ過ぎて顔が腫れあがっていたり、激しく流血していたり、もはや意識を失っていたりするというのに、それを黙殺してその場で繰り広げられる戦い、あるいは片方の格闘家が掴み取った勝利に人々が興奮している事態というのは、通常では尋常な事態ではない。
 格闘技というフィールド上でのみ許された正当な暴力に夢中になることにより、まさに退屈を無理に埋め合わせようとしているとしか思えないのである。

 そして人々は、格闘技自体にも退屈し始め、今に至る。

 

安保法案反対デモと退屈

 最近、もう一つ、私にとって退屈を象徴するニュースがあった。
 例の安倍政権による安保法案への反対デモである。

 予め断っておくと、私はこの法案については何の意見も持ち合わせていない。「公正な選挙で決まった与党が通そうとしている正当な法案」以上に語るべきことは何もない。
 と同時に、反対派の主張を非難する気持ちもない。反対派などというのは何に関しても少なからずいるものだと思うからである。

 しかしながら、今回の安保法案反対デモについては、その主張の内容はともかく、事態がややおかしいと思っていた。
 反対派の態度には全く同意できなかったし、それに伴って、その主張にも耳を傾けようなどという気にもならなくなっていった。反対派が過激になればなるほど、その気持ちは大きくなっていき、不快にすら思えてきた。

 私には彼らが、「退屈だからデモという暴力に熱狂している」というようにしか見えなかったからである。
 彼らの真意は知らない。少なくとも私にはそう思えた。

 

地方都市のデモ行進

 2015年夏、私の住んでいる地方都市でも土日ともなればデモ行進が行われていた。恐らく全国的に行われていたことなのだろうと推測する。
 紋切り型のシュプレヒコールを上げながら街をだらだらと練り歩く様を、私はたまたま見ていた。与党を批判する替え歌を歌いながら練り歩いている時もあった。「イマジン」を大音量で流している時もあった。
 とにかくだらだらと楽しそうに路上を闊歩していた。

 「暇つぶし」でやっているとしかどうしても思えなかったのだった。「サークル活動」と言い換えても差し支えないし、「お楽しみ会」でも構わない。
 そのデモ行進をしている人たちから真剣さは微塵も感じられなかった。「安保法案成立を絶対に阻止するんだ!」という感じでは、彼らは全然なかったし、「この法案がいかに危険であるか街の人たちに伝えるんだ!」という感じでもなかった。

 自己満足でやっているように見えた。警察を配備させ、街の信号をずっと赤にさせ、一般の人々の往来を遮ってまで。
 デモ行進のためになかなか変わらない信号を待ちながら、その不真面目でだらだらした「暇つぶし」活動を眺めるにつけ、一体これは何のためのデモなのか、彼らの目的がわからなくなり、呆然としてしまった。
 ましてデモの列が終わるまで信号は変わらないので憤然とさえした。

 

退屈しのぎのデモ活動

 要するにその反対デモは、「退屈しのぎ」の集積であったと私は考えている。国会前でのそれは、さらにその傾向が強まっていたように思う。
 かつてあったらしい安保闘争にノスタルジーを覚える世代、「なんか暇だし、なんとなく不安だなー」と思っている人たち、「何か大きなことをしなければならない気がするけど、何をすればいいんだろう。それにしても暇だな」と思っている学生。
 そういった人たちの集まりが、各地でのデモ行進及び上記国会前での大規模デモであったと私は思う。

 一部の人は暴徒化し、逮捕者まで出たと聞くが、まさに退屈解消のための暴力行使が現実化しているのである。
 デモ活動というよりは、大規模な路上の不法占拠であったとも聞くが、警察や与党議員というその場における少数派に対する数の暴力に満足しているだけにしか私には思えない。

「土日にはみんなで集まってわいわい今週もデモしようぜー、わー、久しぶりの人もいる、元気だった? あー終わったー、来週もよろしくね、どっかでご飯食べてく?」みたいな感じのあのデモに、少なくとも私の心は全く震えなかったし、ますます与党を支持したくさえなったのだった。

 

それが退屈によるものかどうか見極めよ

 散々書いてきたが、私は別にデモ参加者及び支持者を非難したいわけではない。
 真剣な気持ちで反対の声を上げていた人もたくさんいるだろう。

 私が思うことは、何か大きな事態(この場合はデモ活動)が発生した時、それが「退屈しのぎ」によるものか、そうでないかを見極めることは、自分が意志決定をする際の重要な判断材料になり得るということである。

 現に今、法案が可決してしまってからは、少なくとも私の街ではデモ行進なんて一度も行われていない。本来なら可決されてからがいよいよ国会に対して憤るべきなのではないかとも思うのだが、そうではなかったらしい。
 その辺の事情はよくわからないものの、これも彼らが「退屈しのぎ」「お楽しみ会」のノリでデモを行っていたことの証左となり得る。
 もしデモ最盛期に「あ、私は今退屈してるからデモに熱狂してるんだな」と気づくことができれば、単なるブームとして終わった儚いデモに貴重な時間を費やすことはなかったであろうし、逮捕されることもなかったであろうと思うのだ。

 私はたまたまその時に退屈していなかったから、「このデモは一過性のものにすぎない」と冷静に判断できた。
 だが、ものすごく退屈だったら、デモりたくなっていたかもしれない。シュプレヒりたくなっていたかもしれない。

 でも、そこに「ああ、よく考えれば彼らのやっていることは単なる退屈しのぎだな」という判断材料を加える事ができれば、冷静で自分なりの正しい判断ができるだろうということである。
 それでもデモりたいならデモればいいし、「やっぱいいや」と思えばそれまでである。

 ただ、法案が可決されてそれが沈静化した今、デモ参加者及び煽動者には批判的な意見が集まっていると聞くし、一般の殆どの人は、デモがあったことなんて忘れてしまっていて、たまに思い出して「あの夏、そんなこともあったな。ところであれは一体何だったんだ」と思っているであろうことから、「デモらない」という選択が正しい判断だったと私は考えている。

 

おわりに

 退屈から直接に逃げようとすると、なんであれ失敗するに決まっていて、長い目で見ると逆に退屈を強めるだけである。

 退屈の時代である。
 退屈は我々に様々なことをもたらし、様々なことを唆す。

 退屈の操り人形にならないために、その退屈とやらを客観視して一息つき、冷静に判断することは、なかなか肝要なことではないかと思うのである。

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