飄々図書室

【書評・読書感想文】本にまつわるあれやこれや

強く、ブレない旅行記『インパラの朝』中村安希【著】

      2016/04/30

インパラの朝―ユーラシア・アフリカ大陸684日 (集英社文庫)

 旅の本というと、だいたいカイドブックみたいなものに終始するというのが私の印象だった。
 必要な物とか心構えとかアドバイスが書かれていて、「人生は君の物なのだから、一度くらい、ふらっと旅に出ちゃえば?」みたいな軽いアプローチで唆されるものが、旅に関する本だと思っていた。

 しかし、本書『インパラの朝 ユーラシア・アフリカ大陸684日』は違う。
 至極硬派な姿勢で貫かれたドキュメンタリーなのだ。

 

小さな声にそっと耳を傾けること。むしろ、これこそがコミュニケーションの核ではないか

 冒頭に書かれた一節である。つまりこれこそが著者・中村安希の旅の動機である。その章はたった2ページに過ぎない。

 続いて、旅の準備。
 

26歳の春が来て、私は冷蔵庫を売りとばした。

 大胆な書き出しである。
 これにも著者はたったの2ページ分しか文章を割いていない。つまり、残りの271ページは、まるまる旅の記録なのである。
 しかも、かなり高濃度で要点のみが的確に表現された記録だ。

 著者は、「小さな声に耳を傾けること」、つまり、世界を自分の足で歩き、自分の目で見、耳で聞くことによって、マスメディアによるバイアスのかかった情報ではない、正しい情報を体験したいと考えた。
 我が身で人々とふれあい、その人々の視点から世界を捉えようとしたのである。

 従って、本書は、人々とのふれあいの事実や、それによる自身の感情、考察などが中心に書かれている。
 決して安易に海外への旅を唆すようなものではない。
 当然、過酷で文字通り命がけの旅だったが、弱音や不満みたいなものにページが潰されることはなく、あくまでも、自分の目で世界を認識するという姿勢に貫かれている。

 著者・中村安希は、とても強い女性であるという印象を私は持った。
 そして、文章がとても巧い。まるで上質な短編小説のように旅の記録を追体験することができる。要点のみが簡潔に書かれ、ブレがない。非常に読みやすく、引き込まれる。
 アジアから、イスラム圏、アフリカ、ヨーロッパに至るまで、その信念が崩れることはない。そして、我々は、彼女が体験した世界を知ることによって、新しい世界の認識へと至ることになる。

 例えば、イスラムの者たちについて、排他的な印象を、少なくとも私はなんとなく持っていたのだが、著者は彼ら/彼女らに意外なほどの寛容さで接せられることになるし、例えば、アフリカと言えば、貧困にあえいで、誰もが不幸せという印象なのだが、著者が直接触れたアフリカは、確かに金銭の裕福やインフラの整備という点では先進国に劣るだろうが、人々の表情に不幸せなど見当たらなかった。

「もちろん、イラン国内にも宗教的な過激派や保守的な人もいるけれど、僕たち一般の大多数は、あまり宗教の束縛のない自由な社会を望んでいる。僕らの最大の関心事は、宗教よりも経済だ。(略)」
「けれど世界の常識は、そんなふうには捉えていない。欧米諸国を中心に、イランは敵視されている。残念だわ。(略)私はただ悔しいだけなの。こんなにも温かく美しい国が、正しく認識されていないことが」
「それはちょっと短絡的だ。悪い面だってたくさんあるし、良い部分なんて一部にすぎない。だいたい君は無防備すぎる。僕らだって、もしかしたらイランの悪魔かペテン師かテロリストかもしれないよ。知らない人について行ったり、安易に車に乗ってはダメだ。もっと注意が必要だ」
「そういうあなたも無防備すぎるわ。もっと慎重にならなくちゃダメ。私を誰だと思っているの? スパイか詐欺師か泥棒よ。出会ったばかりの旅人を簡単に家に招き入れて、危険だと思わないの? もっと注意が必要よ」
 私たちは随分笑った。何だって自由にいろいろ話した。彼らのことをずっと前から知っていたような気持ちだった。

 貧困? それはまさに私自身が一番言おうとしていたことだ。私はアフリカに行くにあたって、一つの構想を立てていた。アフリカへ行って貧困と向き合い、現地の惨状を確認し、世界に現状を知らしめて共感を得ようと計画していた。(略)けれど、あてがはずれてしまった。なぜなら、予想していた貧困が思うように見つからなかったからだ。想像していたほど人々は不幸な顔をしていなかった。
 私はしばらく混乱し、テーマも話題も失った。そしてある時、愕然とした。私がやろうとしていたことは、旅の意義に逆行していた。既成概念を設定し、そこから逆算しようとしていた。既に出ている結論に正当性を与えるための根拠集めに奔走していた――まるで退屈な数学の証明問題を解くように。
 私は数学の勉強を諦め、白くまっさらなノートを広げた。そして神経を研ぎ澄まし、ペンでコツコツ頭を叩いた。
 アフリカは教える場所ではなくて、教えてくれる場所だった。助けてあげる対象ではなく、助けてくれる人々だった。アフリカは貧しい場所ではなく、圧倒的な豊かさを秘めた、愛されるべき大陸だった。

 

 彼女は旅の途中、現地の人と共に喜び、悲しみ、怒り、現地の人として共に生きた。
 時に友人として、時に家族の一員として。一期一会の旅人として。
 それらの体験が結実した、強さと知性と冷静さに溢れた文章に感心するばかりだった。旅人としての数々の別れのシーンでは、著者と共に涙が溢れそうになった。
 『インパラの朝 ユーラシア・アフリカ大陸684日』は、誠に稀有で圧倒的な旅の記録である。

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