飄々図書室

【書評・読書感想文】本にまつわるあれやこれや

【書評】はちゃめちゃ・破天荒・爆笑『やし酒飲み』エイモス・チュツオーラ【著】

      2016/04/30

やし酒飲み (岩波文庫)

 破茶目茶、支離滅裂、荒唐無稽、意味不明、おもしろい。
 それが『やし酒飲み』である。

 著者であるエイモス・チュツオーラはナイジェリア出身であり、私はアフリカ文学というものを全く読んだことがなかった。それほど興味もなかった。
 独特の理解し難い世界観が広がっていそうだという先入観もあった。ついていけるだろうか。

 杞憂だった。

 本に関するブログを運営しておきながら、実は私はそれほどの読書家ではない。
 本に興味はあるけれども、いざ読書となると20頁も読めば大抵疲れてきて、集中力を欠いてしまう。
 そのまま永久に頁が開かれぬまま眠らせてしまうこともある。

 『やし酒飲み』は違った。

 あまり聞いたことのない作家の聞いたこともない小説であるかもしれない。
 まして、岩波文庫などという非常にお堅い場所から刊行されていることも、ハードルを上げる大きな要素になっているであろう。

 しかし、断言しよう。
 『やし酒飲み』は岩波文庫のラインナップの中において、一番ふざけている小説である。
 全くお堅くなどないし、そこから何も学ばなくて良い。
 ただただ笑って読めばいいのである。

 

唐突な物語設定

 わたしは十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。

 こうした書き出しで物語は始まる。
 「毎朝、百五十タルのやし酒を採取してきてくれたが、わたしは午後二時前にそれをすっかり飲みほしてしまい」と書いてあることから、相当な大酒飲みだったらしい。次元を超えている。どういうことなんだね。
 物語中、なぜか「酔っ払った」との記述は全く出てこない。

 主人公の男は毎日やし酒ばかり飲んで過ごしているのだが、ある日、無限のやし酒を提供してくれていた父が亡くなり、美味しいやし酒の醸造家も木から転落して亡くなってしまう。
 やし酒が飲みたい。どうしてもあの美味しいやし酒が。

 わたしは、「この世で死んだ人は、みんなすぐに天国に行かないで、この世のどこかに住んでいるものだ」という古老たちの言葉を思い出した。(略)
 わたしは、死んだやし酒造りの居所を探しに、住みなれた父の町を旅立った。

 こうして男は「死者の町」へと旅に出るのだった。

 正義も悪もない。お姫様がさらわれたわけでもない。世界の危機を救うためでもない。
 ただ、酒が飲みたかったというだけの動機で。

 

スピーディーな展開

 ここまでで10頁。
 この小説、展開がものすごくスピーディーである。だらける部分が一切ない。
 旅の途中で男には幾多の困難が待ち受け、大体においてそれをさらりと都合よく乗り越えるのだが(それが原因でつまらない小説だという意見もAmazonのレビューにはある)、「もうちょっと詳しく説明してくれ」と思えるほど、その旅は爆進する。

 困難 → なんだかわからないけど解決 → 次の困難
 という具合でただただ直進していく。

 「様々な登場人物が絡みあって」などという展開はない。ひたすらに直進。
 なので、読者は殆ど何も考えないで頁をめくることができる。

 感情移入する余地なんてない。
 登場人物の名前を覚える必要もない。
 伏線もないし、謎かけもない。
 雑念なしに物語に没頭できるのだ。

 私が思うに、『やし酒飲み』は横スクロールアクションである。スーパーマリオみたいな、ひたすらに直進してゴールを目指すゲームである。
 以降様々なスタイルのゲームが登場しているが、スーパーマリオが古臭くて劣っているだなんて誰も思わない。
 シンプルで、誰でも楽しめる。オールタイムベスト。

 確かに『やし酒飲み』は、一本道で滅茶苦茶な小説かもしれない。
 だけど、それだけでつまらないと断罪してしまうのは、もったいないと思うのだ。

 

ジュジュって何だね

 ある晴れた朝、わたしのもって生れたジュジュjujuと、それに父のジュジュまでも、全部身にまとい(略)

 10頁で突然そうやってジュジュなるものが登場するのだが、何の説明もないので具体的にそれが何なのか全然わからないのだった。もちろん、物語の終わりまで何の説明もない。
 読み進めるうちになんとなくわかってくるのは、ジュジュとは「精霊の力による魔法みたいなもの」らしいということである。

 わたしはジュジュの一つを使い、またたくまに、非常に大きな大きな鳥に姿を変えて飛びかえり(略)

 わたしは、ジュジュの一つを使って、トカゲに姿を変えて、後をつけて行った。

 ジュジュの一つを使い、妻と荷物を、木の人形に変え、わたしのポケットの中へ入れた。

 それが著者の狙いなのかどうかはわからないものの、私はこの何の説明もされないジュジュなるものが気になってしまって、次はいつ出てくるのか、早く出てこないかと、期待を持って頁をめくる羽目になってしまった。

 物語中、ジュジュなるものは何度か発動されるのだが、「私はジュジュのことを思い出して」とか「私はすっかり忘れていたジュジュを使って」とか、なんでそんな大事なもの忘れてるんだよと、特に後半はツッコミどころ満載で物語は展開される。
 ゲームで言うところのMP的なもの足りないのでジュジュが使えない、と物語も終盤で突然にほのめかされたりと、もうめちゃくちゃ。
 
 大体においてこの物語、最初から最後までずっとジュジュとやらを適切に使い続けていれば、困難などないのである。
 だけど、主人公はジュジュを忘れているんだから仕方ない。
 随分おっちょこちょいな奴だが、なんか憎めない。

 

「わたし」の正体

 故郷の町を出てから七ヶ月たって、わたしはある町に着き、ある老人の所へ行った。この老人というのは実は人間ではなく神様で、わたしが行った時丁度妻と食事をしているところだった。家へ入って挨拶すると、彼らは丁寧にわたしを迎えてくれた。神である彼の家に、人間が、わたしのように気軽に、入ってはならないのだが、私自身も神でありジュジュマンjuju-manだったので、この点は問題がなかった。

 これにはひっくり返った。
 「問題はなかった」じゃないよ。主人公は神であるとの突然の告知。聞いてないよ。
 そして、いきなりさらりと出てきたが、ジュジュマンって何だね。聞いてないぞ。

 「わたし」はどうやら、「この世のことはなんでもできる、神々の〈父〉」であるらしい。物語中、そう自己紹介する場面が多々ある。

 なんたる謎設定。

 万能の神であるにも関わらず、「私は八百万の神であることを思い出して」なんて記述が散見される。繰り返すが、随分忘れっぽい奴だ。
 かと思えば、「神が私を作りたもう」なんて言っていて、ここにもそこにもいろいろな種類の神様がいるのである。
 こういったいまいち意味不明な矛盾かと思われる事象もお構いなしに、読者に考えさせる余裕など与えずに、めちゃくちゃなまま物語は驀進する。

 

独特な文体=訳者の天才

 わたしは十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。当時は、タカラ貝だけが貨幣として通用していたので、どんなものでも安く手に入り、おまけに父は町一番の大金持ちでした。

 ご覧の通り、『やし酒飲み』は「です・ます」と「だ・である」が混在して訳されている。

 著者エイモス・チュツオーラは前述の通り、ナイジェリア人なわけだが、きちんとした教育を受けられなかったにも関わらず、なんと英語でこの小説を書き上げた。
 カタコトの英語で。
 その風変わりな文体を日本語で表現するために、そのように訳したのだそうである。

 「死神」の家から「死神」を連れ出したその日から、「死神」には永住の場所がなくなりました。わたしたちがこの世で「死神」の名をよく耳にするようになったのは、そのためなのです。そして、以上が、前から探し求めていたやし酒造りの居所を知りたい一心で、老人に言われるままに、「死神」を老人のもとに連れ出してきた話である。

 読んでいると、これがなかなかおもしろい。
 シリアスな場面でいきなり「なのです。」と語ってみたり、逆に、どうでもいい場面で急に「なのである。」と堅くなったりする。その、すっとぼけた語り口が軽妙で、魔術的な効果を発揮していると私は思う。
 だもんで、それが気になって、次はどんなふざけた「です・ます」「だ・である」が登場するだろうかと、どんどん読み進めてしまったのだった。
 これは訳者の功績が大きい。天才すぎる。

 

魅力的な魔物たちと登場人物

 『やし酒飲み』はアフリカのヨルバ族の神話や伝承に基づいて書かれた物語であるらしく、奇々怪々な魔物みたいなものやおちゃらけているとしか思えないキャラクターが続々と登場する。彼らが次々と主人公の行く手を阻むのである。

 頭以外のパーツは全て借り物である「頭ガイコツ」、おっちょこちょい過ぎる「死神」、強欲な赤ん坊、「幽霊島」の王様――。
 恐ろしいというよりは、コミカルで愛すべき者たちであり、豊富な想像力の産物である。一体誰がこんなものを思い付くんだというキャラクター大放出。

 中でも私のお気に入りは、「ダンス・ドラム・ソング」のエピソードである。少し長いが引用してみよう。

 「ドラム」がドラムを打つぐらいに、ドラムを打てる者は、この世に一人としていなかったし、「ソング」がソングを歌うぐらいにソングを歌えるものはいなかったし、また、「ダンス」がダンスをおどるぐらいにダンスをおどれる者は、一人としていなかったからだ。(略)いよいよ特別の祭典に定められた日がやってきた時、この三人組の仲間がやってきて、「ドラム」がドラムを打ちはじめると、百年来死んでいた人々がみな一斉にムックリと起き上って、「ドラム」が打っているのを見んものと、方々から集ってきた。また「ソング」が歌いはじめると、新しい町の家畜や森林の動物やヘビまでがみんな、人間の姿を借りた「ソング」を一目見んものと集ってきた。そして「ダンス」(その婦人)がダンスをはじめると、森林の生物、精霊、山の生物こぞって、それに川の生物までもが、ダンスをしている人を見ようとして、町に押しかけてきた。そしてこの三人の仲間が同時にスタートした時には、新しい町の住民全部、墓から起き出してきた人々みんな、それに動物、ヘビ、精霊、そのほか名もなき生物たちが一斉に、この三人組と一緒におどり出し、わたしは、生れてはじめて、その日に、ヘビが、人間とかほかの生物より上手におどるのを見たのだった。そして一旦その町の住民全部と森林の生物が一緒におどりだした時、まるまる二日間ぶっつづけにおどり、誰もおどりをやめさせることはできなかった。しかし、「ドラム」は、やがて、自分がこの世の者でないことをさとって、ドラムを打ちながら天国へ帰って行き、その日からは、二度とこの世に姿を見せなくなった。すると今度は、「ソング」が歌いながら、意外にも、大きな川に入っていき、それが、彼の姿のこの世での見納めということになってしまったのだった。そして最後に「ダンス」は、おどっているうちに山になり、その日以来プッツリと消息を断ってしまった。そこで墓から起き出してきた死者たちはみな、また墓へ戻り、その日から二度と起き上ることができなくなってしまい、のこりの生物たちもみな、森林などに戻って行き、その日以来、彼らは町へ出て、人間とか、その他の類と一緒におどることができなくなったのだった。

 こういう幻想的なお祭り騒ぎみたいなものが私は好きだ。
 全ての生き物(死んでいる)が墓場から蘇ってきて祝祭に酔いしれて、お祭りが終わったら元通り帰って行くだなんて、なんて素敵。
 散々『やし酒飲み』の滅茶苦茶さについて書いてきたが、この同様にして滅茶苦茶なお祭り騒ぎのシーンだけでも、この物語を読んでよかったと思うのだった。素晴らしい。

 

まとめ

 これほど破天荒な物語はない。しかも、読んでも何の役にも立たない。ただ破天荒さがおもしろいだけ。
 破天荒すぎて、発表時には西洋文学に大きな衝撃を与えたらしい。

 滅茶苦茶でいい。おもしろければいいじゃないか。
 人生はお祭りなのだ。

 ただ役に立つだけのビジネス書・自己啓発書の類に疲れ切った脳をふにゃふにゃにする『やし酒飲み』を、私はここに強くおすすめするのである。

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