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恋の痛々しい黒歴史小説『肉体の悪魔』ラディゲ【著】

      2016/11/19

肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫)

 何とも禍々しいタイトルの物語だが、決してエクソシストみたいな話ではない。
 サタンは出てこない。亡霊なんてもってのほか。

 純然たる恋愛小説である。

 そして、この禍々しいタイトルから予感される通り、ハッピーエンドを志向するような恋愛小説ではない。
 このことは、異様な書き出しからしてもよくわかる。

 僕はさまざまな非難を受けることになるだろう。でも、どうすればいい? 戦争の始まる何か月か前に十二歳だったことが、僕の落ち度だとでもいうのだろうか?

 物語は、主人公が人妻であるマルタとの恋愛を述懐して書いたとの体裁をとっている。

 その恋は、不倫だったからうまく行かなかったわけではない。
 それは、主人公の臆病で、優しくて、傲慢で、独りよがりな振る舞いが招いた悲劇である。
 タイトルの「悪魔」とは、自らへの自虐的な表現であろう。

 

恋愛における黒歴史が詰まった傑作

 ところで、新明解国語辞典第七版における「恋愛」の定義はこうなっている。

 特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと。

 この定義の素晴らしいところは、恋愛におけるネガティブな部分、すなわち、「ちょっとでも疑念が生じれば不安になる」というところにまでスポットが当てられているところであろう。
 単なる辞書の言葉であるにも関わらず、この定義にはかなり共感できると人々の間で話題になった。

 上記定義にシンパシーを感じる人は、きっと『肉体の悪魔』にも共感できる。
 その物語は、当該辞書の言葉同様、恋愛の良い面も悪い面も、高揚感もカッコ悪い部分も、包み隠さず描かれているからである。

 『肉体の悪魔』は作者であるラディゲの実体験を元に書かれたようであり、その感情には非常にリアリティがある。いや、リアリティなんてものじゃない。まさに僕たちの恋愛そのまま。

 ものすごい浮き沈み。ジェットコースターのような一喜一憂。
 そんな恋の病における症状を、冷静に分析し、物語として著している。
 読みながら自分の経験を思い出して「あーこんなことあったわー」と気恥ずかしくさえなること、この上なし。

 ラディゲも恥ずかしさに胸をえぐられそうになりながら書き上げたに違いないと私は勝手に思っている。

 

主人公の恥ずかしい独白によるストーリー展開

 一般的な恋愛小説はストーリーが語られて物語となる。
 だが、『肉体の悪魔』では、主人公の心情がひたすらに、克明に語られて、それがストーリーとなる。
 ポジティブもネガティブもごちゃ混ぜにして、その時の心の動きが正直に吐露される。

 もちろん彼は恋に落ちているわけだから、感情の浮き沈みがものすごい。

 例えば、

 主人公「マルタはもしかしたら僕のことなんてもう好きじゃないのかもしれない」と、ふとしたきっかけで勝手に思い込む。
  ↓
 そのネガティブな思いは膨張し続け、落胆し、絶望し、自暴自棄になり、怒りに身を任せて罵詈雑言にマルタをなじる。
  ↓
 マルタ「全然そんなことないわ。勘違いよ。私のことそんな風に思ってたなんてひどいわ」
  ↓
 主人公「え? マジで? じゃあ僕のこと変わらずに愛してるってことだねやったーありがとう僕も愛してるよ」

 などという瑣末でありながらもこっ恥ずかしい主人公の一喜一憂についてもきちんと記述される。こういった恥ずべき経験は、男女問わず誰にでも一度はあるのではないだろうか。

 しかも、このような幼稚な浮き沈みの集合が小説全体を占めていると言っても過言ではない。
 恋のジェットコースターみたいな浮き沈み小説である。
 ことあるごとに落ち込み、不安になり、疑念に取り憑かれる。その一瞬後には浮き上がり、晴れ渡り、愛とやらを信じる。そして、また違う原因で落ち込む。それの繰り返し。

 恋の病、発病のオンパレードで、読者を飽きさせない。

 

彼の、そして僕たちの泥臭い愛

 主人公は時に、愛ゆえの自分勝手な論理をかざしてマルタを振り回す。
 優柔不断で臆病であるが故、彼にはそうすることしかできなかったのだ。

 ネガティブな感情の奥の奥までさらけ出して表現されたこの小説。
 普段、恋愛の明るい面にしか目を向けない僕たちにとって、主人公の言動は時にクソ野郎に思える。
 「何やってんだ、お前」「もっとやるべきことがあるだろ」「なぜ彼女が悲しむことをわざわざするんだ」「自分勝手な奴だな」とため息をつきながらツッコミを入れてしまう。

 だけど、彼は僕たちの恋愛そのものなのではないだろうか。
 恥ずかしいことも、みっともないことも、自分勝手なところも含めて、それは僕たち自身にも当てはまる。
 誰もがその病に罹れば、傲慢になり、自分勝手になり、臆病になる。
 洗練さは失われ、合理性を考慮する余裕なく、おしなべて泥臭くなる。みっともなくなる。

 読みながら、駄目な主人公に対して「何やってんだクソ野郎」と憤慨しつつも呆れてしまう。しかし、しかる後に、果たして自分が彼に対して憤慨したり呆れ果てたりできる資格があるのだろうかと自問してしまうのだった。

 決して彼は恋愛の特殊な例ではない。
 むしろ、彼は僕たち一人ひとりの分身であるかのように、ごくありふれた人物なのだ。
 そこが、強い共感を呼び起こし、『肉体の悪魔』が歴史に埋もれることなく名作と呼ばれ続ける所以であると私は考えている。

 

まとめ

 『肉体の悪魔』は主人公の成長の物語ではない。
 何も学ばないし、成長もしない。
 ひたすらに自分の臆病さと向き合い、そこから愛とかいうやつを考察し、掴み取ろうとしただけの産物である。

 それは僕たち一人ひとりの恋の物語と似ている。
 衝動的で、病的で、自分勝手で、恥ずかしい。
 彼だってハッピーエンドを目指して激情のさなかを一目散に駆け抜けたのだ。

 そんな人生の恥部とも言うべき独白、黒歴史を、怖いもの見たさで覗いてみてはいかがだろうか。

 
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