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【書評・読書感想文】本にまつわるあれやこれや

【書評】美しき傑作『タタール人の砂漠』ディーノ・ブッツァーティ【著】

      2016/11/20

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

 殆ど何も起こらないにも関わらずこんなにも面白い小説であるのは、それが僕たちの人生の縮図となっているからに他ならない。
 主人公たるジョヴァンニ・ドローゴの惰性に甘んじた人生が、他人事としては読めないのである。

 

僕たちは退屈から逃げることはできない

 僕たちは退屈だ。人生に飽き飽きしている。
 変化に対して臆病なくせに、「なにかいいことないかなー」とか言ったりする。
 何かドラマティックなことを心の底では望んでいるのに、日々、スマホゲームにちまちまと時間を費やしたりする(私もそうである)。

 では、何か大胆な行動に出ればいいのかというと、決してそうではないらしい。
 「退屈から逃れるために、人生を変えようとする大胆不敵な画策は、殆ど失敗し、むしろ退屈を増大させるだけである」というのが、現在の心理学・哲学における共通認識となっていると聞く。

 じゃあどうすればいいんだね。
 安心したまえ、我々の人生はジョヴァンニ・ドローゴの生涯ほど退屈ではないのだ。

 

『タタール人の砂漠』あらすじ

 ジョヴァンニ・ドローゴという青年将校がバスティアーニ砦に赴任するところから物語は始まる。バスティアーニ砦は、国の外れの辺境に位置する砦である。
 ドローゴは若く、気概に溢れ、可能性は無限だと思える年頃である。これから素晴らしい人生が待っているに違いない。

 しかし、ドローゴを待っていたのは、何のために存在するのかわからない辺鄙な場所にある砦への赴任。どうやらタタール人とやらが砂漠の向こうから攻めてくる可能性があると言う。だけど、そんなことは砦ができてから一度も起こったことはなかった。
 退屈な毎日でやる気のとうに失せた同僚や上官、形骸化した規則や慣習、無限に広がるような砂漠の向こうからタタール人が攻めてくることだけを期待する日々。

 着任間際のときには、せめて4ヶ月後にはこの退屈な砦から異動したいと願っていたドローゴだったが、彼もまた、繰り返しの毎日の中で感覚が麻痺し、惰性の中に埋没していってしまう。
 挙句、数ヶ月経った頃には自ら望んでここバスティアーニ砦に残りたいなんて志願する始末である。

 形式的な慣習が繰り返されるだけの日々の中で、一人ぼっちの寝床の中で、孤独な夜の中で、ドローゴは夢想する。明日、タタール人とやらが砂漠の向こうから攻めてくるかもしれない。待ちに待った時だ。勇敢に戦い、ヒーローになるんだ――。
 季節は流れて、繰り返す。砦は何十年も変わらぬ平穏な景色の中で、そこに聳える。

 休暇を取得し、生まれ育った町に久しぶりに帰れば、出世してバリバリ働くかつての友人たち。
 唯一変わらない場所と思っていた自分が生まれ育った部屋、何だか居心地が悪い。まるで自分の居場所じゃないみたいだ。
 恋仲になるはずだった女性との会話は、何年もの時間を隔てたがために、全く弾まない。

 そうしてドローゴの居場所は、あのかつては忌まわしかった辺鄙な砦だけがよすがになってしまう。
 友人も遠ざかり、結婚もできず、家族も作らず、ただタタール人が攻めてくるのを、風化した慣習の中で何年も待ち続けることしかできなくなっていく。

 

僕たちの人生も同じようなものに違いない

 ドローゴの赴任、これは僕たちで言うところの、就職戦線を勝ち抜いた末の入社である。
 僕たちも、それなりに気概に、希望に溢れて社会に出るに違いない。何かドラマティックな人生が待っているかもしれない。

 入社したての頃は、何もかもが新鮮で、新鮮なだけに色々なことが目に付く。
 「この長いだけの会議には果たして意味があるだろうか」
 「もっと効率的で、間違いの少ないやり方があるんじゃないだろうか」
 「なんでこんな理不尽に怒られたりしなければならないのだろうか」など。

 それでも、僕たちは特別ではない。ヒーローになることを夢想しながら、全然ヒーローなんかじゃないのである。
 入社したての頃のそんな疑問は、時が経つにつれて雲散霧消してしまう。慣習の中に埋没して、思考停止してしまう。惰性で日々をやり過ごしてしまう。

 妥協の結婚をし、友人と疎遠になり、家に居場所もなく、会社だけが唯一の拠り所になってしまう。

 そうして気がつけば僕たちにはもう、可能性は残されていない。なんとなく働いていただけで、後は年老いて行くだけ。
 一体この人生は何だったんだ。

 ドローゴ将校と、一体何が違うだろうか。殆ど同じじゃないか。
 ドローゴの生涯は悲劇でも何でもない。僕たちの人生と本質的には何ら変わりないのだ。

 

おすすめポイント

全ての文が名言である

 『タタール人の砂漠』ではドラマティックなことなど何も起こらない。死亡者が二名出るところが唯一起こる事件らしい事件ではあるが、それは物語をドラマティックに仕立て上げると言うよりは、ドローゴ将校のバスティアーニ砦での生活の虚しさを強調するために引き起こされるようなものである。
 基本的には、何も起こらない。いつまで経ってもタタール人は攻めてこない。

 にも関わらず、ページをめくる手が止まらないほどにおもしろい小説であるのは、それが僕たちの人生の縮図であるという他に、名言・名文だらけであることが挙げられる。
 全てのページが、全ての文が名言であると言っても差し支えない。

 まるで美しい詩のようでありながら、きちんとした小説として成り立っている。
 警句を含みながらも、押し付けがましくない。

 ひとつひとつの些細な出来事を、ドローゴの心情を、とても丁寧に書き出している。完璧な小説である。
 文庫本で350ページ程度の物語であるが、それ以上でもそれ以下でもいけなかった。
 何も起こらないのに、無駄な文が一つもないという、奇跡のような美しい小説だ。

 

作者はドSかコメディアンなのかもしれないぞ

 私は『タタール人の砂漠』を読みながら、作者ディーノ・ブッツァーティは相当サディスティックな人物に違いないと、勝手に推測した。

 物語冒頭がドローゴ将校の幸せのピークであり、後は下がっていくだけ。
 その惰性に埋没していく様を克明に書き出し、心情を炙り出す。圧倒的な孤独。退屈。

 これでもかというほど、ドローゴを追い込んでいくのである。
 孤独なドローゴに残されたのは、せめてタタール人が攻め込んで来てくれれば、この人生にも何か意味があったのかもしれないという希望だけ。
 でも、タタール人は来ない。人生は取り返しがつかない。

 あるいは、作者ブッツァーティは、僕たちを笑わそうとして『タタール人の砂漠』を書いたのかもしれない。
 だって、いつまで経ってもタタール人が攻めてこない小説が、いまだかつてあっただろうか。

 ドローゴにとっての衝撃のラスト。
 まるで350ページを費やした大掛かりなコントのオチである。
 希望は完膚なきまでに打ちのめされるのだけれど、可哀想過ぎて逆に笑ってしまったのだった。

 

10年後、20年後と繰り返し読みたい小説

 『タタール人の砂漠』から、何を読み解き、何を感じるか、何を教訓とするかは読者次第である。

 あるいは、何も感じなくても構わないと私は考えている。
 なぜなら、エンターテインメントと言っていいくらいに面白い小説だからである。何も起こらないのに、続きが気になって読んでしまうという、極めて稀有な物語である。

 もし、何かを教訓とするとしたら、惰性に身を任せているうちに、あんなに可能性に満ちていた人生はいつの間にか終わりつつあり、身動きが取れなくなってしまうのだ、ということの他にはあるまい。
 今、これを書いている私は30代前半だが、本棚に永久保存しておき、10年後、20年後と繰り返し読みたい物語である。

 本当に素晴らしい小説だ。

 
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