【長文】湘南乃風『純恋歌』歌詞の全てを真面目に分析 〜なぜ俺は目を閉じて一番光るお前が見えたか
なぜ俺は目を閉じて億千の星が見えたか
目を閉じれば 億千の星 一番光るお前がいる
初めて一途になれたよ 夜空へ響け愛のうた
サビであり、この冒頭の部分を含めて3回リフレインされる。つまり、アーティストにとってここがメッセージの要であり、「愛のうた」としての一番伝えたい部分であるとみなして間違いないだろう。
「目を閉じれば 億千の星 一番光るお前がいる」の部分は、比喩と考えて良さそうである。すなわち、あけすけに言ってしまえば「億千人もの女がこの世に存在することは知っているが、俺にとってお前の存在が一番大きいよ」ということである。もっと拡大解釈すれば、「その中でもお前を一番愛しているよ」と言ってしまってもいいかもしれない。
愛に関する億千のうちの一番光る論考と愛のうた
愛を相手に語ることは、その唯一性を説明する努力の過程に他ならない、という考え方がある。しかし、言語というものの特性上、私たちは愛を含めたすべての事象を、比較でしか語ることができない。
つまり、「お前を愛しているよ」という時、そこには「お前を愛しているよ(あの子よりも、この子よりも)」という比較が、発言者の意図如何に関わらず必然的に内包される。しかしながら、相手が求めている答えはそんなことではなくて、「私のことを比較としてではなく唯一的に愛している」という説明、証明が欲しいのだ。
従って、突き詰めて考えれば、二人が納得するような答えは一生出るはずがない。だが、「お前のことを比較としてではなく唯一愛しているんだ」ということを懸命に説明し、理解してもらおうとする努力こそが恋愛というものの過程そのものなのではないか。
従って、冒頭の歌詞、「目を閉じれば 億千の星 一番光るお前がいる」、すなわち「億千人もの女がこの世に存在することは知っているが、その中でもお前を一番愛しているよ」は、あからさまとも言える比較が堂々と歌われているのであり、恋愛における「お前のことを比較としてではなく唯一愛しているんだ」という説明努力を著しく怠っていることの証左でありはしないか。しかも、いきなりの歌い出しでである。
こんなことをいきなり歌われて「お前」は喜ぶのだろうか。「お前」は単なる比較の中での愛で満足してしまうのだろうか。もしそうだとすれば、「お前」は「あたしのことどれくらい好き?」なんて決して訊かない、極めて聡明な女性であると言えよう。
あるいは、「俺」は言語についてのそういう問題について全て悟っていたから、敢えて比較で愛を語ったという説もあり得る。
だが、もしそうだとしたら、「目を閉じれば 億千の星 一番光るお前がいる」という表現はあまりにも稚拙すぎる気がする。
映画『イル・ポスティーノ』において、愛する人のために詩を書きたいという青年に対して、老詩人が「詩というのは隠喩(メタファー)なんだ」とアドバイスしていたシーンを私はよく思い出すが、「目を閉じれば 億千の星 一番光るお前がいる」が愛を伝えるために考え抜かれたメタファーと呼べるかどうかについては甚だ疑問だ。
夜なのに目を閉じて星が見えた謎
このサビの部分では、もう一つ疑問点がある。「夜空へ響け愛のうた」と言っているので、舞台は明らかに夜である。
おかしいぞ。
歌い出しで「目を閉じれば 億千の星」とあるが、夜なのだから目を閉じなくても、見上げれば星が見えるはずではないか。なぜわざわざ目を閉じたのか。
その謎は、ストーリー仕立てのこの曲の後半で明らかになることになるとかならないとか。
なぜ俺はパスタにベタ惚れしたのか
大親友の彼女の連れ おいしいパスタ作ったお前
家庭的な女がタイプの俺 一目惚れ
大貧民負けてマジ切れ それ見て笑って楽しいねって
優しい笑顔にまた癒されて ベタ惚れ
周知のパスタ問題
J-POPにおいて空前の大論争を巻き起こしている問題の部分である。
当然ながら、最大の問題は「パスタなどという誰でも美味しくできるものを作ったからと家庭的であるとみなし、あまつさえ急に惚れてしまうというのはいささか安易過ぎなのではないか」ということである。この部分については、もう議論が尽くされているし、実際に「パスタ」によって「俺」が「お前」に「惚れ」てしまったのは事実なので仕方ないと片付ける他ない。
それに続く「大貧民」のくだりも、これについてはもう考えるのも馬鹿らしいというか、「ああそうなんですか」としか言いようがないのだった。少なくとも「マジ切れ」はメタファーではないであろうし、歌詞としては類稀なそのような言葉を敢えて登場させるその勇気を賞賛したい。
惚れ惚れする韻
ところで、歌詞には韻が重要であることは誰もが知るところであろう。
私見では、聴いたときに発音として耳障りの良い言葉を選択して歌うことこそ重要であり、歌詞とはそのテクニックの見せ所であると思う。そして、文字として読んでも楽しめて、程よく想像の余地を残すこと、それこそが素晴らしい歌詞というものであると私は考える。
この部分の歌詞を注意深く見てみると、確かに韻を踏んでいるし、歌われているのを聴いても違和感は特に覚えない。
ただ、歌い出し部分の「大親友」と「大貧民」については、もう少し創意工夫があっても良いと思う。どちらも「大」という言葉で韻を踏んでいるので、これは韻が踏まれて当たり前なのである。まして、「大貧民」だなんて、韻のための辻褄合わせのために無理矢理取ってつけたようではないか。
「連れ」と「マジ切れ」もそう。ほかの部分も同様。
極めつけは、「一目惚れ」と「ベタ惚れ」であり、テクニックもへったくれもない。文末に「惚れ」がただ二つあるだけ。まさにそのまま。そのまますぎて、韻ですらないとは言い過ぎだろうか。
「とにかく惚れたんだ」ということがキーワードであり、それを強調するために稚拙を顧みず敢えてそうしたというのなら、アーティストのその意向を受け止めるしかないのだが。
なぜお前はおぼろげな月を見つめたのか
嬉しくて嬉しくて 柄にもなくスキップして
「好きって言いてぇ」 おぼろげな月を見つめる君に釘付け
守りたい女って思った 初めて
まじめな顔して ギュッと抱きしめた
浮かれ過ぎな俺
この部分にも問題は山積みだ。
前提として示しておきたいのは、この時点では二人の関係はまだ交際に発展していないということである。それは当然ながら、「好きって言いてぇ」の部分でわかる。まだ「好き」と伝えていないのだ。
では、なぜ「俺」は「嬉しくて嬉しくて 柄にもなくスキップ」なんかしたのか。普通に考えるならば、順序が逆ではないだろうか。
「好きです、付き合ってください」
↓
「はい、よろしくお願いします」
↓
「嬉しくて 柄にもなくスキップ」
これならわかる。ただ、事実は、
「嬉しくて 柄にもなくスキップ(まだ付き合ってないのに)」
↓
「好きって言いてぇ(まだ付き合ってないので)」
↓
「ギュッと抱きしめた(ずいぶん急だな)」
と、いまいちついて行けない展開を目の当たりにすることとなる。
しかも、前の部分で「パスタ」だの「家庭的」だの「大貧民」で「負けてマジ切れ」しただの、言わなくていいことまで散々具体的に語っていたにも関わらず、この部分については、例えば、「交際の申し込み」とか「抱きしめたときの彼女の反応」とか「彼女の気持ちや言葉」とか、そういった重要な事が徹底的に省かれ、「ギュッと抱きしめた」へ乱雑に集約されてしまっている。
二人は本当に付き合ったのか、とさえ疑いたくなる。そして、こんな急な展開によく彼女は嫌がらなかったな。
とにかく脳天気な男だ。まだ付き合ってもいないのに、「お前」に「ベタ惚れ」したということだけでとにかく「嬉しくて 柄にもなくスキップ」してしまうような男である。そのポジティブさが羨ましい。
最速で恋に落ちたお前と俺
「ギュッと抱きしめた」のは「俺」が「お前」と出会ってどのくらいの月日が経ってのシーンなのか。もしかしたら、「お前」が「パスタ」を作ったところから、「まじめな顔して ギュッと抱きしめた」のところまで、たった1日の中での出来事なのかもしれない。
これはあり得る話である。
ストーリーとして、「お前」が作った「おいしいパスタ」を食べた後に、「大親友」と「彼女」と「連れ(つまり、「お前)」と「俺」で大貧民をして、その日の帰り道に「ギュッと抱きしめた」のだと考えるのが一日の中でのイベントの経過として自然だし、そのように捉えるべく表現されている気がする。
むしろ、それぞれのセクションが別々の日だと考えるほうが難しい。恋に不安はつきものだが、それについて何も描かれていないということは、二人は出会ってから一度もそれぞれの家に帰って一人の時間を過ごしていないと考えるべきであろう。「パスタ」や「大貧民」などに見られるように、かなり具体的な名詞を用いて歌詞を彩っているにも関わらず、現代的な恋愛を象徴するツールである「電話」や「メール」「LINE」が登場しないことからも、それは裏付けられそうだ。
加えて、「パスタ」から「抱きしめた」までの歌詞中に時間の経過を示す手がかりは示されておらず、後に歌われる「あれからずっと一緒だよな お前と俺」で、時間が動いた表現がようやくされることも、それがたった1日の出来事だったことを裏付ける証拠となり得る。
「一目惚れ」の後に「マジ切れ」し、よくわからないまま「スキップ」さえして、ジェットコースターのような一日だな。
口は災いのもと
重要だと思うことについては、一度だけでなく二度三度伝えることを私たちは知っているし、誰しもそのようにして伝えると思う。そして、人は嘘を付くとき、その傾向がさらに顕著になることも私たちは知っている。
「守りたい女って思った 初めて」と歌われているが、サビの部分でも「初めて一途になれたよ」と、「初めて」が登場するのはこれで二度目である。そしてさらに、サビはこの後二回繰り返されるから、「初めて」という言葉は通算四回繰り返されることになる。
文字通り解釈すれば、「俺」にとってこんなに好きになった女性は本当に初めてだったのだろう。だけど、「初めて」ということをそんなに何度も言われたら、逆に何だか疑わしく思ってしまうのは私だけだろうか。
月がおぼろげだった謎
映画やドラマにおいて、悲しいシーンやドラマティックなシーンでは、必ずと言っていいほど雨が降っている。雷さえ鳴ることもある。反対に、大団円のシーンでは必ず快晴だ。
「みんな幸せ、めでたしめでたし」といった感じのラストシーンで暴風雨警報が発令されていることは、絶対にない。
人物の心情やシーンの雰囲気に合わせて天候もそれに従うのであり、物語を作り出す者はそれを許されている。「都合のいい天気を作り出すなんてリアリズムに反する」などという批判は絶対に起きない。物語の中の全ての情景には必ず何らかの意味が含まれているし、含まれていなければならない。
とすれば、「おぼろげな月を見つめる君に釘付け」の部分、その月が「おぼろげ」であったとわざわざ説明されていることにも何らかの意味があるはずだし、何らかの意味が含まれていなければおかしいことに気づくはずである。
なぜ月は「おぼろげ」だったのか。その答えを導くには、もう少し歌詞を読み進める必要がありそうだ。
なぜお前は一番光ったのか
目を閉じれば 億千の星 一番光るお前がいる
初めて一途になれたよ 夜空へ響け愛のうた
冒頭の歌い出し部分のリフレインである。
「真面目な顔して ギュッと抱きしめ」て二人は交際し始めたらしいことを受けてのこのサビであるので、「俺」の心情としてはかなり浮かれているに違いない。まだ恋人同士になってもいないのに「嬉しくて 柄にもなくスキップして」いたほどだから、ここでの「一番光るお前」は他の「億千の星」の弱々しき光を飲み込むほど強烈に光っていたはずだ。
しかしながら、目を閉じて「俺」の目に最初に飛び込んで来たのは、変わらず「億千の星」なのだそうだ。その後、少し探してから「一番光るお前」を認識している。
本当に一途なのかい。
どれくらいお前と俺はずっと一緒だったのか
あれからずっと一緒だよな お前と俺
最近付き合い悪いと言われるけど
なんだかんだ温かく見守ってくれてる 優しい連れ
「なぁ」変なあだ名で呼ぶなよ 皆バカップルだと思うだろ
でもいつも落ち込んだ時
助けてくれる お前の優しい声
まず始めに明記しておきたいことは、ここで言う「連れ」は、1番の歌詞に出てきた「大親友の彼女の連れ」の「連れ」とは違う人物であるということである。1番に出てきた「連れ」は「お前」にスピード出世し、それ以降、降格することなく「お前」であり続けているようだからだ。
「連れ」などという一般的に歌詞に表される頻度が極めて少ない言葉が、一曲中に二度も、しかも違った対象を指す言葉として登場することは、これは「愛のうた」ではなく、「連れ」に関する歌なのではないかと錯覚してしまうほどだ。
最速で同棲を始めたらしいお前と俺
「あれからずっと」というのは、「ギュッと抱きしめた」時からと考えて間違いないだろう。ただ、どれだけの時間のことを言っているのかは明記されていない。数年に渡ってお互いが一途だったということかもしれないし、いきなり同棲を始めて24時間ずっと一緒だったという意味かもしれない。
どうやら後者である可能性か高い。
それを紐解く手がかりはある。友人たち(連れ)に「最近付き合い悪いと言われる」のは、普通、交際が始まってすぐの間だけのことだろう。しばらく経ってしまってからでは、「最近」などとは言わないだろうし、まして「付き合い悪い」のは当たり前になってしまって、誰もわざわざそんなことに言及しなくなるだろうからである。
「ずっと一緒」である交際中の男女が「バカップル」でいられるのは、せいぜい3ヶ月であろうと私は考える。男性の脳はそのようにできているのであり、まして、付き合ってもいないのに「嬉しくて 柄にもなくスキップ」していたくらい熱を上げていたなら、それが冷めるのもかなり早いと推測される。
「皆バカップルだと思うだろ」に内包された「俺」の心情は、二通り解釈できる。すなわち、「バカップルだと思われるからやめろ馬鹿野郎。お前とバカップルするつもりなんてさらさらねぇんだよ」か、あるいは、「バカップルだってのがバレちゃうだろ―やめろよー(幸せだな―)」だ。ただ、「俺」は「バカップル」と思われることに対して、そんなには嫌悪していないと思われる。従って、どちらかと言えば後者寄りの解釈のほうがより真実に近そうだ。
つまり、このセクションの時期を推測するなら、交際が始まって3ヶ月、長く見積もっても半年以内とみなすことができるであろう。短く見積もれば1ヶ月くらいかもしれない。
「なぁ」とは本当に何なのか
「なぁ」については、いまいちよくわからない。わざわざカギ括弧が付いているところを見ると、「変なあだ名」=「なぁ」であることはわかるのだが、それ以上のこととなると理解が追いつかない。
「ナオト」などのあだ名としての「なぁ」かもしれないし、「おい」のような呼びかけの発語としての「なぁ」かもしれない。
私としては後者であると定義付けたいのだが、呼びかけとしての「なぁ」は「変なあだ名」ではないし、「バカップル」ではなく、むしろ長年連れ添った夫婦のような風情が漂う。
だとすれば、前者の「ナオト」など名前の一部をあだ名にした「なぁ」説が有力かとも思うのだが、歌詞は普遍性を以って書かれるべきであると私は考えるので、あまり認めたくない。いきなり、個人名のあだ名である「なぁ」が出てくる歌を聞かされて、一体誰が共感するというのだ。
もちろん、スピッツにもGOING STEADYにも個人名が出てくる曲はあるし、Oasisの名曲”Don’t Look Back in Anger”においては、サビで突然「サリー」という誰だかわからない人物が登場したりする。特に洋楽において、それは割りと典型的な手法として用いられているようだ。
ただ、「なぁ」はどれだけ思案しても「なぁ」の域を出ないのであり、それは「なぁ」だけに考えるのも馬鹿馬鹿しい気持ちになってくるのだった。
なぜ俺は景品の化粧品を持っていたか
きっとお似合いな二人 共に解り合って 重なり合っても
折り合いがつかない時は 自分勝手に怒鳴りまくって
パチンコ屋逃げ込み 時間つぶして気持ち落ち着かせて
景品の化粧品持って 謝りに行こう
まず耳障りなのが「お似合い」と「折り合い」の韻踏みなのだが、そこには触れるまい。
それと、これはごく個人的な嗜好に過ぎないのだが、男女のそういう行為を「重なり合う」と表現するのがあまり好きではない。使い古されてしまって、もはや陳腐化しているし、第一、全くと言っていいほど比喩になっていない。下品ですらあると私は考える。源氏物語を熟読しろ。
とにかく折り合いがつかないようである
急展開である。ラブラブな時期はたった6行で終わって、今や修羅場だ。
ついさっきまで「お前の優しい声」に助けられていたのに、いきなり恩を仇で返すように「怒鳴りまくって」しまっている。どうやら二人は喧嘩をしたらしいが、事態が突然すぎて、全然話について行けないのだった。
しかも、原因については「折り合いがつかない」以上は説明されず、何がなんだかさっぱりわからない。そのくせ「パチンコ屋」だの「景品の化粧品」だの、どうでもいいことについてはやたら饒舌だ。前半の「パスタ」とか「大貧民」とかのくだりを少し省略して、この辺の説明をもう少し詳しくして頂くことはできなかったのだろうか。
このままではラブソングとしての説得力がまるでない。「折り合いがつかない」原因をきちんと特定し、二人がきちんと建設的に事態を解決していくのだということが示されなければ、今回はたまたま仲直りできたとしても、「折り合いがつかない」状況は必ず再来するだろうし、「俺」が再び「パチンコ屋」に逃げ込むことが大いに懸念される。そして、来たるその際に、同じように「景品の化粧品」を獲得できるとは限らないのだ。
やはり同棲していたお前と俺
ここで、どうやら二人が同棲をしているのであろうことがわかる。
それぞれに帰る家があるのであれば、喧嘩をして居心地が悪くなった際には、自宅へ帰る、あるいは帰らせればいいのだが、「俺」は自分勝手に怒鳴りまくった後に、わざわざパチンコ屋に逃げ込んでいることから、二人の帰る場所は同一の空間であることが大いに推測される。
つまり、交際後、二人はすぐに同棲して、今に至るようだ。
景品の化粧品不要論
「パチンコ屋」の「景品の化粧品」などという、全然心がこもっていないように思えるものを持って「謝りに行こう」だなんてどうかしてる、という見解も世論として多く見受けられる。それについてもここでは触れるまい。
ただ、「景品の化粧品」が手元にあるということは、喧嘩した後にイライラしながら打ったパチンコでなぜか勝ってしまったということだろう。
なぜ、勝ってしまったんだ。
物語として、「仲直りしよう」と「俺」が思うように仕向けるためには、むしろ負けてさらにボロボロの精神状態に追い込んでこそ、その心情が映えるのではないかと私は考える。
彼女と喧嘩
↓
パチンコ屋に逃げ込む
↓
ボロ負け
↓
何やってもダメだ。そんな俺には彼女が必要なんだ。
このほうがストーリーとしてドラマティックだし、説得力がある気がする。映像化もしやすそうだ。
一体、喧嘩した後に、パチンコで勝ったことでちょっと浮かれながら、都合よく手にした「景品の化粧品」を持って「謝りでも行くかー」みたいな感じのこの物語について、誰が感動するというのだろうか。とにかく「景品の化粧品」が都合が良すぎる。
ただ、世間的にはこの部分が涙腺を刺激するらしいし、曲としてもここでしっとりとした調子に変わることから、ちょっとした聞かせどころとしてアーティスト自身も捉えているらしいのだった。
なぜ俺は何故かわからなかったのか
目を閉じれば 大好きな星 あんなに輝いてたのに
今では雲がかすめたまま それが何故かも分からぬまま
会いに 会いに行くよ…会いに…
会いに行くよ…
お馴染みのサビであるが、メロディーは同じであるものの、歌詞に変化が現れる。それまでの歌詞は迷いなく「お前が一番好きだ」ということを歌っていたのだが、ここでは少し違うようだ。
「大好きな星」は、すなわち「一番光るお前」を言い換えたものである。それが今やあまり光っていないらしい。なぜなら、雲がかすめてしまっているからであり、なぜそうなってしまったのか「俺」はよくわからないみたいなのだ。
その「星」は、「俺」の好きの度合いによってものすごく光って見えたり、光って見えなかったりするようだ。そして、今、「雲」のせいで光って見えない。
すなわち、この部分を比喩なしで表してみると、「お前のことがすごく好きだったのに、理由はわからないが、何らかの外部的要因によりその気持ちがかなり弱くなってしまった」ということになると思う。
その外部的要因とは、「折り合いがつかなかったので、自分勝手に怒鳴りまくった」ことに関係しているのは間違いないと推測されるが、実体は明らかにされない。そもそも「俺」も「それが何故なのかわからない」と歌っているので、誰もわかるわけがないのだった。
そして、わからないまま「会いに行くよ」と高らかに宣言するという、非常にドラマティックなシーンである。結論から言えば、結局最後まで何故かはわからないままである。
俺はここから一行ずつ解説していく
桜並木照らすおぼろ月
ここからは、前のセクションを受けてのストーリーである。つまり、「景品の化粧品持って 謝りに行こう」と決意した帰り道のことであると考えて間違いない。
季節は春なのだとわかる。「桜並木」もそうだし、「おぼろ月」は春の季語だからだ。
ところで、二人が交際する(ギュッと抱きしめる)シーンを思い出してみると、「俺」は「おぼろげな月を見つめる君に釘付け」だったと言っているが、ここでもキーワードとして「おぼろげな月」が出てきていることから、その時も季節は春だったのだとわかる。
前述のとおり、二人の交際期間は1ヶ月~半年と推測したので、間違っても「おぼろげな月を見つめる君に釘付け」のシーンが去年以前の春であるということはないだろう。とすれば、二人は今年の春に交際を始めて(ギュッと抱きしめて)、同様にして今年の春に大喧嘩をして(パチンコ屋に逃げ込んで)、現在に至るに違いない。
舞台が湘南だとすれば、桜の開花は3月下旬から4月中旬であるそうなので(参照:平塚市ホームページ)、ギュッと抱きしめたのが遡って3月上旬頃、パチンコ屋に逃げ込んだのが4月上旬頃とみなしてほぼ間違いないと思われる。
つまり、二人の交際期間は1ヶ月である。
「ギュッと抱きしめた」ところのセクションでも季節は春だったにも関わらず、「おぼろげな月」には言及されるものの、あんなに目立つ「桜」については説明されないことからも、上記時期設定の推測は強度を増す。「ギュッと抱きしめた」時は、3月上旬なので桜はまだ咲いていなかったのだ。
出逢った二人の場所に帰りに一人寄り道
「出会った二人の場所」というのは、「お前」が「美味しいパスタ」を作り、「俺」が「マジ切れ」した場所のことだろうか。
変わらぬ景色 変わったのは俺ら二人
たった1ヶ月のことなのだから、桜は咲いているにしても、景色はそんなに変わらないだろう。それに対して、君たち二人はずいぶんと変わった。
全て見えてたつもり 目に見えないものなのに…
目を閉じて億千の星が見えるくらいだから、そりゃあ全て見えてたつもりだっただろう。
「目に見えないもの」とは具体的に何を指しているのかについては、考える余地がある。ひとつは、首尾一貫してうるさいくらいに言っている「愛」というやつか、あるいは、目を閉じて見えた一番光るお前というやつか。
確かに「愛」というやつは目に見えないし、「一番光るお前」は「俺」が目を閉じた時にしか見えていない。
まー、どうでもいいか。
お前はここから2行ずつの解説を読むことになる
馴れ合いを求める俺 新鮮さ求めるお前
お前は俺のために なのに俺は俺のため
曲中で「俺」という言葉は全部で7回登場するのだが(「俺ら」は除く)、そのうちの4回がここで費やされている。過半数である。そういった意味で言えば、ここはハイライトとも言うべきシーンである。
ちなみに、「お前」は全部で9回登場する。「おぼろげな月を見つめる君に釘付け」のところだけ、なぜか「君」になっているのだが、そのシーンだけ「お前」と口に出せない魔法にでもかけられていたのだろうか。
「馴れ合いを求める俺 新鮮さ求めるお前」で、バカップルの時期は過ぎ去り、今や倦怠期であることが明白にされている。
春の夜風に打たれ 思い出に殴られ
傷重ねて 気付かされた大事なもの握りしめ
季節は春なのだとわかる。なぜなら「春」だとはっきりと言っているからだ。そして、何が言いたいのかもうお分かりだと思うが「傷重ね」と「気付かされ」の韻踏みが本当に耳障りだ。
女性は、二人が運命的に出会ったのだというその事実(あるいは、思い込み)だけで、相手をずっと愛し続けることができるとよく言われる。この部分は、そんな女性の心理に上手に付け入っていると思われる。
「俺」は「思い出に殴られ」た後に「気付かされた」らしいが、つまり、「たくさんの楽しかった頃の思い出が蘇ってきて、大切な何かに気付かされた」ということで間違いない。このように表現をすることによって、「お前と過ごした時間は幸せだった」ということを理屈抜きで伝えることができ、こんなに楽しい時間を過ごせる二人が出会った運命的なものを匂わせることさえできる。
とにかく論理や理屈が一切出てこないこの曲だが、その非論理的で感情的なモノローグであるがゆえに、理屈を嫌悪する多くの女性を感動させているに違いない。
「大事なもの握りしめ」の「大事なもの」とは、「景品の化粧品」のことだろう。
なぜ俺はそんなにも将来を見据えているか
今すぐ会いに行くよ 手を繋いで歩こう
絶対離さない その手ヨボヨボになっても
白髪の数喧嘩して しわの分だけの幸せ
二人で感じて生きて行こうぜ
私たちは時に、こういった「おじいさんとおばあさんになっても手を繋いで、仲睦まじくしていようね」的な歌を嗜好する。
だが、現実を見渡した時、一体どれだけのカップルが実際にそうなっているだろうか。恐らく全てのカップルは、当初は「おじいさんとおばあさんになっても手を繋いで、仲睦まじくしていようね」を志向するものの、「折り合いがつかない」現実に飲み込まれ、その夢は往々にして頓挫する。
増して、例えば、街で中年くらいの夫婦が手を繋いで歩いていたり、ちょっとベタベタしていたりするのを見ると、「キモい」とか言って馬鹿にする傾向にある。
つまり、「おじいさんとおばあさんになっても手を繋いで、仲睦まじくしていようね」というのは、単なるファンタジーに過ぎないのではないか。手の届かないファンタジーだからこそ、人はそれに憧れる。
逃げ水のような儚さが、ここでは歌われている。
なぜ俺は馬鹿な男だったのか
LOVE SONG もう一人じゃ生きてけねえよ
側に居て当たり前と思ってたんだ
サビで「愛のうた」と言っていたが、ここでは「LOVE SONG」と英訳されている。
「側に居て当たり前と思ってたんだ」と言っているが、今、なぜ側にいないかというと、「俺」が勝手に「パチンコ屋に逃げ込」んだからではないのか。「もう一人じゃ生きてけねえよ」とか大袈裟なことまで言って、人のせいにするなよ。
LOVE SONG もう悲しませたりしねえよ
空に向け俺は誓ったんだ
空に向けて誓ったからって何なんだ。当事者である「お前」に向けて誓えよ。
LOVE SONG ヘタクソな歌で愛を
バカな男が愛を歌おう
まーまー、そんなに自虐的にならないで。
一生隣で聴いててくれよ
LOVE SONG 何度でも何度でも
「パスタ」のくだりとか「マジ切れ」あたりとかも、一生涯に渡って何度も聞かされるのだろうか。拷問か。
LOVE SONG… 何でも話そう
LOVE SONG… 約束しよう
突然、何の前触れもなく「何でも話そう」とか言われて、あまつさえ約束させられようとしている。何かの刑罰だろうか。
なぜ俺は目を閉じて億千の星が見えたか
目を閉じれば 億千の星 一番光るお前がいる
初めて一途になれたよ 夜空へ響け愛のうた
お馴染みのリフレインである。
冒頭で、「夜なのだから目を閉じなくても星が見えるはずなのに、なぜわざわざ目を閉じたのか」という疑問を提示したが、ここまで来れば、その謎は明らかである。
「季節は春で月がおぼろげになるくらいの霧が出ていたから、星なんて目視できなかった」のである。加えてその時、月も出ていたとなれば、その明かりで星の光なんて名の通り雲散霧消するし、第一、一番光っているのは月になってしまう。
もしかしたら、「一番光るお前」=「月」なのかもしれない。だが、それでは「目を閉じ」た意味がない。目を閉じなくても、一番光っているのが月なのは一目瞭然なのである。
つまり、この部分を正確に記述するなら、「空に霧が覆う春の夜のこと。空に星は見えないけど、目を閉じれば億千もの星(たくさんの女性)が見える。だけど、その中でもお前は一番光っているよ(一途に愛しているよ)」ということになる。
望み通り、夜空に響くといいと思う。
俺は本当にもう二度と忘れないのだろうか
目を閉じれば 億千の星 一番光るお前が欲しいと
ギュッと抱きしめた夜はもう二度と忘れない
届け愛のうた
前項と殆ど同じだが、ところどころフレーズが変わっている。ラストシーンである。
「ギュッと抱きしめた夜」とはすなわち、二人の交際が始まった時のことである。「もう二度と忘れない」と言っているが、推測による交際期間はたったの1ヶ月であり、その間に一度忘れてしまっていることになる。随分忘れっぽい奴だ。「その手ヨボヨボ」になるまで、あと何回忘れるのかが大変に懸念される。
場面の転換がされていないので、ここまでのシーンはずっとパチンコ屋に逃げ込んだ後の帰り道であり、「届け愛のうた」と言っている片手には、絶えず「景品の化粧品」が握りしめられていることを忘れてはならない。
想像し得るお前像とお前へのささやかな提言
女性は概ね「ねぇ、あたしのどこが好き?」に対する返答を常に求めていて、絶えず聞いてくることになっていると私は認識しているのだが、曲中で「お前」についてわかることは、
・おいしいパスタを作ったので家庭的な女である
・俺がマジ切れしても笑顔が優しい
・『なぁ』と変なあだ名で呼ぶ
・落ち込んだ時に優しい声で助けてくれる
・新鮮さを求める
・一番光っている
くらいのものであり、「愛のうた」として、「あたしのどこが好き?」の潜在的なニーズを満たすための「お前のこんなところが好きだよ」という説明としてはいまいち不十分な気がする。
すなわち、「お前」は「ねぇ、あたしのどこが好き?」なんて決して訊かない、極めて聡明な女性と言えるだろう。それに対して、「俺」は「ヘタクソな歌で愛を歌うバカな男」なのだった。「なんだかんだ温かく見守ってくれてる 優しい連れ」から見れば「お似合いな二人」なのかもしれないが、とにかく「俺」がバカすぎる感は否めない。
「お前」には、是非とも「マジ切れ」したり「怒鳴りまくっ」たりしない、同じく聡明な他の男を早急に見つけて、今よりも幸せになってもらいたいと私は望むのである。
■本稿における著作権の考え方
本稿においては湘南乃風「純恋歌」の歌詞を「引用」している。適法な「引用」のためには
1. 明瞭区分性
2. 主従関係
の2つが要件とされている。(著作権法第32条、最判昭和55.3.28)。
1. 本稿においては歌詞引用部分をblockquoteタグで囲うことで明確化しており、本文中の引用部分のデザインについても背景色がグレーになる、「”」の記号が付記されることで、当該部分が引用であることが明示されているため「明瞭区分性」は充分に満たしていると考えている。
2. 本稿においては湘南乃風「純恋歌」の歌詞全文を「批評のために」「引用」している。歌詞引用部分は896文字であるのに対し、批評本文は11962文字(標題含む)であり、主従関係は明白である。また、引用文全てに対して批評をしており、且つ、著作物の改変などは行っていない。
従って、本稿における歌詞の掲載は著作権法に違反するものではなく、適法な「引用」であると考えている。
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