「ハンバーグはなぜ美味しいのか」の精神論 ―ハンバーグは免罪符である

よく考えてみれば、ハンバーグが美味しいのは不思議である。ミンチにした肉を再形成して焼いただけ。それなのに場合によってはステーキよりも豚の生姜焼きよりも美味しい。

ミンチにするという行為は、例えば馬肉などのあまりにも固すぎるものを食用とするための加工技術である。しかしながら、現在主流のハンバーグに馬肉が使われているわけではない。ステーキや生姜焼きとして食べることができるにも関わらず、私たちはわざわざ肉をミンチにしてハンバーグにする。そして、言う。

「ハンバーグはうまいな」

なぜハンバーグはこんなにも美味しく、惹かれてしまうのかを解き明かしていくのが本稿の論旨である。予め申し上げておくと調理技術の話ではない。

本稿はハンバーグの中でもとりわけ美味である「金の直火焼ハンバーグ」(セブンイレブン)を食べながら書いている。

 

ハンバーグが美味しいのか、デミグラスソースが美味しいのか問題

ハンバーグを語る際に避けては通れないのが「ハンバーグが美味しいのか、デミグラスソースが美味しいのか」という問題提起である。これは突き詰めて考えると「卵が先か、鶏が先か」という哲学の問題や、「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」(ハムレット)という文学性をも孕んでいるようにも思えるが、事態は至極単純である。

 
1. おろしハンバーグも美味い
2. デミグラスソースはそれ単体でも確かに美味いが、ハンバーグと共にしてこそ相乗効果が得られる
3. ステーキや生姜焼きにデミグラスソースソースをかけても別に美味くない

 
上記を少し検討すれば誰でも分かる通り、ハンバーグの勝利である。つまり「ハンバーグが美味しいのか、デミグラスソースが美味しいのか」という問いへの答えは、当然の如く「ハンバーグが美味しい」となる。愚問であった。

 

なぜ肉をミンチにしなければならなかったのかをバラバラ殺人から考察する

ミンチは残虐に見える

昨今の激しい動物愛護の潮流にも関わらず、ハンバーグはその影響を全く受けずに飄々としているように思える。ハンバーグというのは前述の通り、動物の肉を完膚なきまでにミンチにしてそれを再形成して焼いた料理である。

「ミンチにする」以上に残虐な行為がこの世にあるだろうか。「ファラリスの雄牛」においてもファラリスは設計者であるペリロスを炙り殺しはしたもののミンチにはしなかった。史上稀に見る悪名高き独裁者チャウシェスクも、革命によって銃殺されたもののミンチにはされなかった。

しかし、私たちは罪なき動物の肉をミンチにした後に見栄え良く丸く形を整えて焼き、「美味しい」と舌鼓を打つ。この残虐性と美味とのコントラストをどのように考えたらいいのだろうか。

 

バラバラ殺人の本質

人間社会において最も残虐とされる行為の一つに「バラバラ殺人」がある。殺人を犯した者が追い打ちをかけるように被害者の身体を解体し、細分化することである。一般にこの行為は「殺人でさえ信じられない行為なのに、自首する代わりに更にバラバラにするなんて非人間的だ」という感想をもたらし、報道等でバラバラ殺人が報道されると視聴者は一様に戦々恐々、阿鼻叫喚となる。

しかし、バラバラ殺人は本当に残虐で非人間的な行為なのだろうか。別役実『犯罪症候群』では下記のように述べられている。

《バラバラ殺人》の犯人は、その身元を隠そうとしてバラバラにするのではなく、彼の犯行の結果であり、罪の結晶である死体を、大きく拡散させ、同一人物の死体としてはあり得ないほど「薄める」べく、そうするのだ。(略)

《バラバラ殺人》の犯人は、他の犯罪の犯人に比較して、極端に兇悪視される傾向にあるが、実際は決してそんなことはない。彼らはすべて、思いがけないほどにナイーブである。ナイーブであるからこそ、自分自身の犯罪に耐えられず、耐えられないままに、それをバラバラにして、なかったことにしようと自ら繕うのである。(略)一個の人間の死体として平然と放っておける神経こそ、罰せられるべきではないだろうか。

P92-94

私たちが家畜を食べる行為も一種のバラバラ殺人(殺動物)である。豚を解体して「ロース」だの「ハラミ」だの「バラ」だの「モツ」だのに分けられパック詰めされたものを購入して、それに火を通して貪り食う。しかし、その遥か上を行くのが言うまでもなく「挽肉」である。バラバラどころではない。ミンチである。もはや原型を留めていない。

 

ミンチで罪悪感を薄める

上記『犯罪症候群』からの引用文によれば、人がバラバラ殺人を犯すのは、人を殺してしまった罪悪感や嫌悪感を雲散霧消させるためであるという。一個の死体としてのリアリティを解体し、解体されたもの同士を引き離すことによってそこにあったはずの死体は死体としての実態から限りなく遠ざかる。

この考え方を応用すれば、ミンチというのも「動物を殺して食べる」という罪悪感を雲散霧消させるための必然的な行為であると言えないだろうか。もちろん、バラバラ殺人は死体の部位同士を遠ざける(右腕は◯◯県に捨てる、左足は△△県に捨てるのような)ことによって罪悪感を薄めるわけであるが、ミンチに関してはもはや原型を留めていないので罪悪感を実感する余地がないし、何よりも私たちは食べなければならないので、再形成して食べる。美味しい。それがハンバーグである。

 

ステーキ好き男子、ハンバーグ好き女子

憎しみでミンチにするのではない

上で例示した「ファラリスの雄牛」やルーマニアの独裁者チャウシェスク、そしてバラバラ殺人からわかることは、人は対象について残虐性を動機にしてバラバラにし、ミンチにするのではないということである。チャウシェスクなんて国民一人ひとりに切り刻まれてもおかしくないはずなのに、そうはならなかった。

中世ヨーロッパでは人に危害を加えた動物が裁判にかけられた末に処刑されていたが、池上俊一『動物裁判』によれば、人の命を奪った動物に死刑が言い渡された顛末は殆どの場合、

 
1. 埋められる
2. 捨てられる
3. 犬の餌になる

 
であったという。人の命を奪った憎き当該動物がミンチになったという記録はないし、あったとしても極めて稀な事態であったことが推測される。「憎しみはミンチを生み出さない」という注目すべき事実がここにある。ハンバーグは憎しみの産物ではない。

 

ハンバーグはハンバーグである

好きな洋食トップ3は「ステーキ」「カレー」「ハンバーグ」|@niftyニュース

上記に示したのは、好きな洋食の男女別グラフである(2015年4月10日~2015年4月16日/有効回答数:3,669)。注目すべきは2点ある。

 
1. ステーキ好きは男性の比率が高い
2. ハンバーグ好きは比較的女性の比率が高い

 
ステーキはワイルドである。クリスマスによく売られる鳥の丸焼きは例外として、ステーキ以上に「肉を食べている」感のある食べ物はそうそうないのではないだろうか。それに対して、ハンバーグは「ハンバーグを食べている」以上の何物でもない。

「よーし、肉食うぞ」と出かけるのは大抵は焼肉屋であり、間違っても洋食屋ではない。「昨日何食べた」「肉食べたよ」「肉にもいろいろあるじゃん。詳しく教えてよ」に対する回答は、間違っても「ハンバーグ」ではない。ハンバーグを食べたなら「ハンバーグ食べたよ」と真っ先に報告するはずだからである。

どうやら私たちはハンバーグは「肉」というよりは「ハンバーグ」であると認識しているらしい。肉から最も遠い肉料理がハンバーグであるとみなしてもいいだろう。

 

共感性の高い女子はハンバーグを食べる、そして結論

男性よりも女性の方が共感能力が高いことは自明であり、論を待たない。上のグラフによれば、共感能力が低い男性はステーキを好み、共感能力が高い女性はハンバーグを好むことが示されている。

バラバラ殺人は罪悪感を薄めるために実行されると先に書いた。そして、ミンチはバラバラ殺人の更に上を行く行為であることも書いた。ミンチは憎しみの産物ではないことも示した。本稿における結論は下記である。

 
「ハンバーグは免罪符であるから美味しい」

 
私たちは、敢えなく食用として死んだ動物に共感しているからこそ、「動物を殺して食べる罪悪感」を雲散霧消させるために、動物としてのオリジナルから殆どかけ離れた実態をしているハンバーグを食べる。共感能力の高い者ほどステーキではなくハンバークを選択する。

そして、ハンバーグがあんなにも美味であるのは「罪の意識が薄れる快感」によるものであろう。罪悪感が快感に昇華される奇跡の瞬間だ。

ハンバーグが「肉」ではなく「ハンバーグ」であるのは、そのような固有の作用があるからであると考えることができる。似たようなウイルスであるにも関わらず固有の作用のある「インフルエンザ」が「風邪」とは分離されて名付けられているのと同じである。

 

やがて、ハンバーグは神になった

ハンバーグは免罪符である。ハンバーグは祈りにも似ているし、一種の懺悔と言っていいかもしれない。

私たちは潜在的に誰もが何かに許されたいと願っている。そのために人間の想像力は神は生み出した。ところで、ウィキペディアによれば、ハンバーグの起源は18世紀頃のドイツだそうである(参考:wikipedia|ハンバーグ)。18世紀と言えばルネサンス時代を経て西欧がキリスト教的世界観から殆ど解放されつつあった時代であり、そのような時にハンバーグが発明されたのは注目に値する。

 
旧世界では神が人間のために世界を作り給うたことを前提としていた。宇宙は地球を中心に回っていたし、全ての食物は人間のためにあった。人間は食用の動物を作り給うた神に感謝はすれど、解体されて食される動物自体については良心の呵責を覚えなかったと想像される。

そんな世界は終わった。ルネサンスは神の時代から人間の時代へ転換する象徴であった。やがて、地球は宇宙の中心ではないことが明らかになり、地球上の生物は神によってデザインされたものではないことが示され、ニーチェによって神は殺されることになる。

しかし、私たちにはハンバーグがついている。神に懺悔しなくても、ハンバーグを食べることによって、同じ地球に生きるものとして許されていると感じることができる。そう、それがハンバーグがこんなにも美味しい理由である。

 
「ハンバーグの美味さは神」というのはメタファーではなく、本質を表しているのかもしれない。この何を信じればわからない時代において、ハンバーグだけが神であると言っても言い過ぎではあるまい。