愛していると伝えたいのに『恋愛の不可能性について』大澤真幸【著】
失恋によるペシミスティックな気分を中和させようと、或いは共感してもらおうとして本書を手に取ることは、全くの無用である。『恋愛の不可能性について』という一見親しみやすそうなタイトルだが、「なかなかうまくいかないのが恋愛ってもんだよ」などという慰めの言葉は一文字足りとも書かれていない。
それもそのはず。本書は恋愛マニュアルではないからである。
表題の論文は50ページ程度の文章だが、はっきり言ってしまえば、難しすぎて特に後半は何が書いてあるのかさっぱりわからない。もちろんこれは、私の理解力のなさが責めに帰すべきものであり、著者にはなんの責任もない。
従って、本稿は『恋愛の不可能性について』の書評などではなく、それが「どれだけわからないか」というドキュメンタリーに傾倒することをお許し頂きたい。
冒頭部分の問題提起は単純明快である。以下、抜粋して掲載する。
ロバート・クロートは、サンドラという女性が提起した愛をめぐる懐疑を、この不安を考察するためのデータとして取り上げている。(略)
――サンドラとウォルターは、一緒に暮らしている。ウォルターは、サンドラを愛していると言っているし、愛にふさわしい行動も示している。しかし、にもかかわらず、サンドラは不安をもち、ウォルターに問う、「あなたは私を本当に愛しているのか?」と――
恐らく、歴史上のほぼ全ての情熱的なカップルが繰り返してきたであろう例である。感情移入さえできるかもしれない。
たとえば、サンドラが美しいこと、サンドラが聡明であること、こういったことをウォルターがいくら強調しても、サンドラは満足しないし、それどころか怒ってしまうかもしれない。
サンドラが問うているのは、ウォルターにとってサンドラが唯一的かどうか、ということだ。サンドラが他によって代替不可能で、かけがえのない者であるか、ということである。
本書の主題は、「君だけを本当に愛しているよ、ということを伝えることは厳密には不可能である」ということである。本書に倣えば、「君の美しさを愛しているんだ」と伝えても、「スージーだってキャロルだって美しいじゃない」と反論されればそれまでなのである。
「君の頭の良い所が好き」には「もっと頭のいい人だって他にいるじゃない」と返されるであろうし、「気が合うところ」には「この広い世界、もっと気が合う人がいるかもしれないじゃない」となれば何とも言えない。
君をこんなにも愛している、ということを相手に言葉で伝えるにはどうしたらいいのだろうか…。などと考えながら読んでいいると、突然、次のような難解な一文が立ちはだかり、困惑する。本当に突然だ。
それゆえ、クロートも指摘しているように、愛の対象は、固有名の指示対象と同じような現われ方をする。
単純な短い文である。しかし、一語一語がいちいち難しい。「愛の対象」とは何を指すのか。「固有名の指示対象」とは何か。「現れ方をする」だなんてかなり仰々しい表現だが、なぜそう表現しなければならなかったのか。そもそもクロートとはどこのどいつなのか。
少し読み進めると、再びウォルターとサンドラが帰ってくる。一転、非常にわかりやすい。アメとムチだ。
愛の対象としてのサンドラの唯一性が確認されるためには、反事実的な仮定が必要となる。たとえば、スージーだったら、あるいはキャロルだったら、私が愛する対象となりうるだろうか、と。このような代替の可能性が排除されるとき、愛の唯一性が示される。しかし、代替についての仮定は、他なる選択肢を、現実に排除されるとはいえ、可能性としてはありえたものとして、確保することを要請するだろう。
ウォルターがサンドラを唯一的に愛していることを証明するためには、「スージーが隣にいたら愛しただろうか、いや、そうではない」という仮定が必要となるが、「スージーだったらどうだろう」と積極的に可能性を探っている時点で、もはやそれはサンドラを唯一的に愛しているということにはならない。ここには矛盾が生じる。ということをここでは言っている(のだと思う)。
以降、その矛盾はなぜ生じるのかについて考察される。あるものを唯一的に指し示す言葉である「固有名」についての言語哲学的論考である。一見、ウォルターとサンドラの物語と関係ないように思える極めて抽象的な議論だが、そう思えるが故に、本当に全く関係ないように思えて眠くなってしまうのである。
そして、次のような難解な文章さえ発見される。
固有名は、事物を個体として指示すると同時に、その事物が指示されているときに関与的でありうる、最大限に包括的な領域をも指示してしまう。ここで「包括的な領域」というのは、固有名による指示がなされているときに参照されうる(可能的あるいは現実的な)存在者の全体より成るクラスであり、その指示にとっての「宇宙」(universe)である。宇宙は、(現実世界を含む)可能世界の全体より成るクラスであると言ってもよい。関与的な存在者の全領域である宇宙は、本性上、もう一つの別の宇宙と並立することができない。
この部分以降、「宇宙」という言葉が頻出し、我々を憔悴させる。どうやらここで言う「宇宙」とは、太陽とか火星とかアンドロメダとかとは無関係な、恐らく哲学用語であることはなんとなく感じることができるものの、「もう一つの宇宙」とか言われてしまうと、もうお手上げである。
ここまででたったの6ページである。以降、殆ど哲学的な論考が大部分を占め、ウォルターとサンドラの物語はこれ以上進展しない。なぜなら、本書は『恋愛の不可能性について』という文章であり、ウォルターはサンドラを納得させるような言葉を捻り出すことができないからである。それは、厳密に、言語哲学的に不可能であるということである。
かわいそうなウォルター。
以降の46ページから、特に難解だと思われる文章を独断と偏見で引用してみる。
可能世界の集合をWとする。(略)ところで、周知のように、集合Wのベキ集合W2は、Wよりも濃度が大きく、Wの部分と見なすことができない。このことは、固有名が記述に還元できないことに対応している。
今問題になっている二つの指示、すなわち’Londres’という固有名による指示と’London’という固有名による指示に潜在的に随伴する、二つの宇宙は、まったく同一の一つの宇宙なのだろうか?
困難の元凶は、クリプキが「引用解除」(disquotation)と名づけた原理である。引用解除原理は「正常な日本語の話し手が熟慮の上で誠実に『p』に同意するならば、彼はpということを信じている」と、表現される。
留意すべきことは、信念情報文はシェイクスピア的ではないと結論すべきでない、ということだ。
∀x, ∀y : n(x) ⇔ m(x) = m(y)
およそ恋愛に関する文章だとは思えないような言葉が並ぶ。謎の数式さえ出てくる。
そう、本書はタイトルこそ『恋愛の不可能性について』というカジュアルなものだが、恋愛の皮を被った言語哲学的「固有名」に関する文章である。「君だけを愛している」と伝え、納得させることは、その「固有名」がある物事を唯一指し示すことと同義であると捉え、それが不可能であることを論考した哲学書である。スウィートな恋などお役御免なのだ。
とはいえ、安心したまえ。我々は変わらずいつだって恋に落ちることができる。気持ちはそのまま伝えればいいじゃないか。「宇宙」なんてどうだっていい。クリプキ? 誰だそいつは。
佐野元春は「La Vita e Bella」という曲の中で、こう歌っている。
君が愛しい 理由はない
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