かなりネガティブな僕たちのヒーロー名言集『絶望名人カフカの人生論』頭木弘樹【編訳】
「笑っちゃうくらいネガティブ」と誰かが言っていた。
言い得て妙である。カフカは本気で悩んでいたであろうが、僕たちの誰もカフカほどには後ろ向きにはなれない。
まして、その後ろ向きの極致を文章で表現するだなんて。
将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
将来にむかってつまづくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。
フランツ・カフカは、言うまでもなく20世紀文学の最高峰に位置する作家だが、その作品はどれも出口のない絶望に塗りたくられている。読者は途方もない迷路に迷い込まされ、脱出の手がかりさえ与えられないまま、その迷宮の中で読了させられる。
最も有名で最も読みやすいであろうとされる『変身』。
ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢からふと覚めてみると、ベッドのなかで自分の姿が一匹の、とてつもなく大きな毒虫に変わってしまっているのに気がついた。
(カフカ『変身』中井正文訳・角川文庫)
このような有名な書き出しで唐突に物語は始まり、淡々と進行する。もちろん、結末が来てもグレゴール・ザムザは人間に戻れることはない。
「全ては単なる悪夢でした、人間に戻れました、家族も大喜び、大団円、めでたしめでたし」なんてことは決してない。
『審判』にしてもそう。わけも分からず主人公が逮捕されるところから物語は始まり、訳のわからないまま処刑される。罪が晴れることは決してない。
長編『城』も、結局、測量士Kは目指す城にどうやっても辿りつけない。
カフカの描く物語には、彼の人生がそうであったように「めでたしめでたし」は決してない。
このような終わりのない悪夢を描き続けたカフカの日常は、これまたネガティブな思いに埋め尽くされていた。彼はあらゆること、特に自分自身について常に悩んでいた。
「まーどうでもいいか」はカフカにはない。
誰も悩まないような瑣末なことにさえ真剣に苦悩している。苦悩し続けている。
本書『絶望名人カフカの人生論』は、カフカが生前に残した手紙やノートなどから、その後ろ向きさ、ネガティブさに焦点を当ててまとめられた書籍である。
ぼくはひとりで部屋にいなければならない。
床の上に寝ていればベッドから落ちることがないように、
ひとりでいれば何事も起こらない。
ちょっとした散歩をしただけで、
ほどんど3日間というもの、
疲れのために何もできませんでした。
ぼくが仕事を辞められずにいるうちは、
本当の自分というものがまったく失われている。
それがぼくにはいやというほどよくわかる。
仕事をしているぼくはまるで、
溺れないように、できるだけ頭を高くあげたままにしているようだ。
それはなんとむずかしいことだろう。
なんと力が奪われていくことだろう。
先天的な、誰にも解決してあげられないような悩みばかりだ。
仕事が嫌で嫌で仕方がなかったが、生活のために辞めることができなかった。とても愛した人がいたが、幸せにする自信がなかったので婚約を3度に渡り自ら破棄した。文学が好きだったが、自らの作品の出来に決して満足することなく、憎悪さえしていた。虚弱な自分の体が嫌だった。両親にコンプレックスを抱いていた――。
カフカはとにかく何に対しても不満だらけで、悲観的だった。
今では「中二病」とでも揶揄されるのだろうか。だとすれば、カフカはその中二病的な思いを物凄い破壊力で包み隠さず書き記し、あまつさえ第三者にそんな恥ずかしい思いを吐露してしまった僕たちのスーパーヒーローだ。
婚約者に宛てた手紙にさえ、そういった思いを赤裸々にしたためていたというのだから驚きである。
カフカは「君を必ず幸せにしてみせる」だなんて絶対に言わなかったに違いない。代わりにこう言っている。
ぼくは彼女なしで生きることはできない。
……しかしぼくは……
彼女とともに生きることもできないだろう。
ぼくは父親になるという冒険に、決して旅立ってはならないでしょう。
誰でも、ありのままの相手を愛することはできる。
しかし、ありのままの相手といっしょに生活することはできない。
僕たちはいくら悩んだとしても、彼ほど悩むことはない。
カフカの「笑っちゃうくらいネガティブ」で圧倒的な絶望・苦悩を目の当たりにすることで、僕たちは少し癒され、苦笑さえしながらまた明日を迎えることができる。
本書を開き、決して晴れることのなかった彼の悩みを聞いてあげることで、僕たちの冴えないスーパーヒーローに少しだけ恩返しをすることができる。
バルザックの散歩用のステッキの握りには、
「私はあらゆる困難を打ち砕く」と刻まれていたという。
ぼくの杖には、「あらゆる困難がぼくを打ち砕く」とある。
共通しているのは、「あらゆる」というところだけだ。
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