『俺ガイル。続』第2話の感想・考察。なぜ比企谷は葉山を助け、雪ノ下は不快感を表したのか
第2話「彼と彼女の告白は誰にも届かない。」
『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続』(『俺ガイル。続』、二期)は第2話からいきなりクライマックスとも言うべき怒涛の展開で、物語の方向性が明確に示されている。それだけに考えるべきポイントがたくさんある。アニメ本編と原作を参考にしながら解説していこう。
※他にも俺ガイル考察記事ございますので、「俺ガイルカテゴリ」からご覧くださいませ。
葉山と比企谷の会話が意味するもの
比企谷「それで壊れるくらいなら、元々その程度のもんなんじゃねぇの?」
葉山「そうかもしれない。けど、失ったものは戻らない」
川辺にて葉山と比企谷が会話をするシーンで両者の考え方の違いが浮き彫りになっているのが印象的である。
比企谷は「何かのきっかけで壊れてしまう人間関係なら、それはそもそもが上っ面だけの関係であって本物ではない」ということを言っている。この考え方は物語の最初期に提示されるテーマであり、比企谷と雪ノ下雪乃の行動様式の根底にあるものであった。ここで「あった」と過去形にしたのは、この第2話で比企谷が葉山を助けることによって、比企谷の中に変化が見られるからである。
それに対して葉山は比企谷の言葉に同意しつつも「けど、失ったものは戻らない」と言う。これは恐らく葉山自身の過去に何か大きな後悔を残している故の台詞であることが伺える。1期の林間学校のところで少し触れられているように、恐らく雪ノ下雪乃を救えなかった過去のことを言っているのだと思われるが、物語の中で詳細に語られることはない。
葉山の本心は「いずれ壊れるのかもしれないけれど、失ったものは戻らないから、失わないための努力はしたい」ということである。だけど、海老名さんに告白しようと躍起になっている戸部を強く咎めることもできないので、実質葉山にできることは何もなく、曖昧で消極的な態度を取るしかなかった。
そこに比企谷が現れて「君にだけは頼りたくなかった」のに、頼ってしまうという流れである。
三者の願いとは?
比企谷のモノローグ「なくしたくない。その手に掴んでおきたい。三者の願いはひとつだ」
ここで言う「三者の願い」を下記に示しておこう。
戸部:
海老名さんに告白し、交際を始めることで海老名さんを「なくしたくない。その手に掴んでおきたい」ということ。
葉山:
上で述べた通り「失ったものは戻らない」から「なくしたくない。その手に掴んでおきたい」ということ。
海老名さん、三浦(あーしさん):
今の関係が楽しくて気に入っているから「なくしたくない。その手に掴んでおきたい」ということ。
この通り、葉山は人間関係の渦中にいる。従って身動きが取れない。しかし、比企谷はその関係の外側にいて失うものなんて何もないので自由に振るまえる。「だから、できることがある」と三者を助ける。
なぜ比企谷は彼らを助けたのか
比企谷のモノローグ「葉山が守ろうとしているものなんて、俺にはわからない。わからないままでいい。だからできることがある」
1. 依頼を受けたから
この修学旅行回(第1話、第2話)のそもそもの始まりは、下記二人が別々に奉仕部に依頼してきたことであった。
戸部:
海老名さんへの告白を成功させたい
海老名さん:
戸部の自分への告白を未然に防いでほしい(かなり抽象的な言い回しで依頼を出してきたので、この真意は比企谷しか気付いていない)
こうして奉仕部の三人(比企谷、雪ノ下雪乃、由比ヶ浜)は戸部の告白を成功させるべく修学旅行中にいろいろと画策するわけである。奉仕部の仕事は依頼を解決すること。従って、比企谷は浮かんだアイデアを実行し、問題を解決した。めでたしめでたし、とはならなかった。
2. 彼らに共感したから
ただ、それでも。
変わりたくないという、気持ち。
それだけは理解できた。
理解してしまった。彼らの出すその答えを否定するための言葉がうまく出てきてくれない。
そこに間違いを見いだせなかった。『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』第7巻、P242-243
比企谷が葉山グループに積極的に介入して自己犠牲によって問題の解決を図ったのは「依頼を受けたから」という理由だけでは足りない。ここが第2話の、そして『俺ガイル。続』の焦点である。
つまり、比企谷は葉山グループの「今をなくしたくない、その手に掴んでおきたい」という思いに少なからず共感したのである。「共感」が言い過ぎだとすれば「否定できない」くらいだろうか。
比企谷には信念があった。「上っ面だけの人間関係なんて嘘だし欺瞞だから本物ではない」という信念である。比企谷は今までぼっちだったので誰に共感することもなかった。しかし、葉山と対峙し意見を述べ合うことによって葉山や葉山グループ(つまり上述の「三者」)の「今が大事」という思いを知り、理解してしまった。彼らに100%肩入れするわけではなくとも、「そういう考え方もあるかもしれない」くらいには心が動いてしまった。
また、葉山の言う「失ったものは戻らない」ということも比企谷は理解している。これは物語中の随所に差し挟まれる比企谷の中学時代のエピソードと関連しているものと思われる。
3. 葉山の利他的な苦悩を理解したから
葉山隼人は誰かが傷つくことを良しとしない。葉山が動けないのは、きっと彼以外の誰かが傷つくことを知っているからだ。
その一歩を踏み出してしまえば誰かが傷つき、何かが壊れる。
それを守ろうと苦悩する者を、踏み込まないでいることの正義を誰が否定できるだろうか。『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』第7巻、P244
あるいは、葉山の苦悩を見過ごすことができなかったからとも言える。葉山には守るべきものがたくさんあった。それは利己的理由ではなく、利他的なものだ。葉山も奉仕部同様に戸部と海老名さんの双方から相談を受けていて、身動きが取れなかった。葉山の本心としては「自分の今を守ろうとしている」というよりは、「彼らの」今を守ろうと苦悩している。
比企谷には葉山の利他的な苦悩がわかった。比企谷と葉山は常に利他的であるという点で似ているが、それ以外の部分は全然似ていない。だからこそ比企谷にはできることがあった。比企谷の正義感に火が付いた。しかし、その行動はそれまでの比企谷の信念を根底から覆すものであり、特に雪ノ下の不快感を招くこととなる。
このあたりの心理描写は原作で詳しく述べられている。
なぜ比企谷は「フラれたらどうするんだ?」と戸部に聞いたのか
比企谷「なぁ戸部、お前フラれたらどうするんだ?」
戸部「そりゃ諦めらんないっしょ。俺さ、こういう適当な人間じゃん。けど、今回結構マジっつーかさ」
比企谷は戸部の「その手に掴んでおきたい」意志がどの程度のものかを確認したかったのである。中途半端なチャラい動機で海老名さんに告白するのではなく、本気の強い意志があるのかどうか。
結果、戸部の「その手に掴んでおきたい」意志は本気だった。だからこそ比企谷も本気で彼らの今を守るために動くことができる。
葉山「すまない」比企谷「謝るんじゃねぇよ」
葉山「すまない。君はそういうやり方しか知らないとわかっていたのに」
比企谷「謝るんじゃねぇよ」
葉山と比企谷はどちらも本心で話している。葉山は比企谷を犠牲にしてしまったことに対して本心で申し訳ないと思っている。それに対して比企谷は、葉山の肩を持ったわけではないし、自分にできることを自分の意志でしただけだから自己犠牲でも何でもないので謝る必要なんてなし、謝られるのは不本意であると本心で思っている。
雪ノ下雪乃はなぜ怒ったのか
雪ノ下雪乃「あなたのやり方、嫌いだわ。うまく説明できなくて、もどかしいのだけれど、あなたのそのやり方、とても嫌い」
比企谷の自己犠牲による海老名さんへの告白の後、雪ノ下雪乃は「あなたのやり方、嫌いだわ」と比企谷を糾弾する。「あなたに任せるわ」と言っていたにも関わらずこの手のひら返しは結構ひどいのだが、それはさておき、なぜ雪ノ下雪乃が比企谷のやり方に対して不快感を示したのかは考える余地がある。2つある。
1. 比企谷の自己犠牲による解決への不快感
平塚先生「誰かを助けることは、君自身が傷ついていい理由にはならないよ。たとえ君が痛みに慣れているのだととしてもだ。君が傷つくのを見て、痛ましく思う人間もいることにそろそろ気づくべきだ」
『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』アニメ一期、第12話
比企谷は「自分はぼっちだから自分が犠牲になっても誰も困らない」という論理に基づいて行動している。これは一期の学園祭のところ(最終話)で顕著に現れ、この修学旅行回でも継承された。上に挙げた平塚先生の台詞は一期の学園祭後のものである。
今回も同じように比企谷は「好きでもない相手に告白してフラれる」という自己犠牲によって問題を解決した。それは比企谷にとっては当たり前で最善の問題解決法だった。
しかし、比企谷はもはやぼっちではない。「君が傷つくのを見て、痛ましく思う人間」が周りにいる。そのことに比企谷自身が気づいていないことが誤算であった。雪ノ下雪乃は「比企谷が傷つくのを見て、痛ましく思った」から不快感を示した。雪ノ下雪乃は「あなたのやり方」が嫌いと言っているのであって、「あなた(=比企谷)」を嫌いと言っているのではない。
また、雪ノ下も基本的にはぼっちであり、誰かが傷つくのを見て、痛ましく思ったことが今までなかったに違いない。だからこそ「うまく説明できなくて、もどかしいのだけれど」と付け加えている。
2. 比企谷が嘘をついたことに対する不快感
この状況を作り上げるために、誰もが小さな嘘を吐いた。
海老名さんを呼び出したのは由比ヶ浜。たぶん適当に理由をつけてこの場へ誘導したはずだ。大岡も大和も何か思うところはあるだろう。純粋な応援だけでなく、面白がる気持ちもあって、それを抑えて神妙な顔をしている。
ここにいない三浦もこれから何が起きるか、知りつつもそれを聞かず、止めず、気づいていないふりをしているに違いない。
葉山は、応援したくとも応援できない。それでもここにいる。
誰もが嘘を吐いていた。
ただ一人、その中で嘘を吐かなかった雪ノ下はいつもよりいくぶんか冷めた、無表情。『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』第7巻、P246-247
先にも述べた通り、比企谷と雪ノ下雪乃には「上っ面だけの人間関係なんて嘘だし欺瞞だから本物ではない」という共通した信念があるようであった。嘘も欺瞞もいらない、そんなものは偽物だ、と。
現に二人はこれまで何に対しても嘘で誤魔化すことはなかった。特に雪ノ下雪乃に関してはそれが顕著であり、嫌われることも厭わずに相手にストレートな物言いをするシーンが散見された。ここでも比企谷のやり方について「嫌い」とはっきり言っている。
しかし、ここにきて比企谷は葉山グループの人間関係をなあなあにし欺瞞化するために「好きでもない相手に告白する」という嘘をついた。学園祭の時も自己犠牲で解決したが、嘘はついていない。むしろ空気を読まずに現実を突きつけてやった。しかし、今回は空気を読んで大嘘をついた。そこが決定的に違う。
雪ノ下雪乃にとっては自分に似ていると思っていた比企谷が欺瞞的な行動を取ったことに少なからぬショックを受けて不快感を示したと考えることができる。
なぜ由比ヶ浜は感情的になったのか
由比ヶ浜「人の気持ち、もっと考えてよ。……なんでいろんなことがわかるのに、それがわからないの?」
由比ヶ浜も雪ノ下雪乃と同様、比企谷の行動にショックを受けたようである。比企谷が自己犠牲によって問題を解決したことへの不快感は二人とも共通している。
しかし違うのは、雪ノ下は「比企谷の欺瞞」を不快に思っていたが、由比ヶ浜は「比企谷が人の気持ちをわかっていないこと」について感情を顕にしている。さて、ここで言う「人」とは誰のことを指しているのだろうか。
葉山グループの問題は解決した。海老名さんも三浦(あーしさん)もその他の人物も、問題の解決を図った比企谷に対して否定的に思うところは何もない。戸部も結局はフラれなかった。彼らはむしろ比企谷に感謝しているくらいだろうし、そのことは由比ヶ浜もわかっている。従って、由比ヶ浜の言う「人」が彼らであるとは考えづらいし、一般論としての「不特定多数の人」でもないことがわかる。
「人」=「雪ノ下雪乃と由比ヶ浜」と考えることは有用である。「君が傷つくのを見て、痛ましく思う人間」が少なくともここに2人はいるという意味である。しかし、雪ノ下が比企谷を糾弾した後、同じ理由で由比ヶ浜が比企谷を責める必要はないように思う。
「人」=「比企谷」はどうだろうか。つまり「もっと自分の気持ちを大事にして」ということ。ストーリーの文脈には沿っているが、こんなに複雑な言い回しをここで由比ヶ浜が選択するかというと疑問が付く。
最も有力なのは「人」=「由比ヶ浜自身」である。由比ヶ浜は比企谷のことが大好きなので、比企谷の再度の自己犠牲に傷ついた。それにプラスアルファとして、他者への告白にかなりのショックを受けた。告白直後、由比ヶ浜の表情がアップで切り取られているのは象徴的だし、竹林の下見の際の「告られるなら」も伏線になっている。
で、あまりにショックを受けた上に比企谷が自分の行動を正当化しようとしていたので、やや感情的になって「人(=私)の気持ちも考えてよ」ということを仄めかしてしまったのだろうと考えるのが自然である。
海老名姫菜というキャラクターについて
海老名さんは周囲に自身のキャラクターを許容させることで、適切な距離感を保っているのだ。本当に変人なわけではなく、「変人」として扱われているだけにすぎない。
『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』第7巻、P214
海老名さんは一期から強烈な腐女子キャラを爆発させていて「なんだこいつ」と思っていたのだが、ここに来て彼女のシリアスな面にスポットが当てられている。
比企谷は海老名さんについて「何かを守るためにいくつも犠牲にするくらいなら、諦めて捨ててしまうのだろう。いま手にしている関係さえも」と分析している。これはもしかしたら俗に言う「人間関係リセット症候群」とも言えるかもしれない。
もし、戸部の告白が未然に防がれなかったら、海老名さんはどうなっていただろうか? おそらく「いま手にしている関係を諦めて捨ててしまう」はずだ。告白を受け入れるか断るかはわからないものの、どちらにしても海老名さんにとっては不本意であるということ。消極性に関しては器用だけれど、積極性に関しては不器用なのが海老名さんの行動様式である。
特に最後の「今いる場所が、一緒にいてくれる人たちが好き。だから、私は自分が嫌い」は相当なインパクトがある。恐らくこの第2話の登場人物の中で最も欺瞞に満ちていたのは、比企谷を除けば海老名さんである。海老名さんは自分で何も行動を起こさずに比企谷や葉山に解決を押し付けて傍観していた。
その上、本心を隠して(=欺瞞的に)流されるがままにいつもニコニコしていた。海老名さんはそれがずるいやり方であることを自分でもわかっている。そんな「自分が嫌い」だから、それでも「一緒にいてくれる人たちが好き」という論理なのだと思う。
次の記事:
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コメント一覧
よく分からなかったところや、引っかかったところを詳しく解説してあってすごいスッキリしました。本当に助かりました。
いつもわかりやすく素敵な考察をありがとうございます。とても楽しませていただいています。
続第1話〜第2話前半までのご感想もぜひ拝見したいと思いました。
台詞に対する疑問は少ないパートですが、文化祭以降の奉仕部3人の親密度に関していろいろなことが生じた旅行だと思います。
またアニメ一期についてのご感想や考察の記事も拝見したいと思っております。
メタ的に見れば…一期から二期へ移行した際に物語の狙いが絞られてきたと感じるのですが(小説は当初一巻で完結予定だったということも然り)、そのせいか特に主人公比企谷について一期のどこまでが行動原理として考察対象として有効なのか…など思案が定まりません。
例えば…文化祭後の部室での会話の「なら俺と彼女は…」「ごめんなさい」という(一期の第一話を踏まえた)やりとりがコメディ作品の体裁のためのものなのか、比企谷の願望なのか、とか。
二期が描写に無駄がなく、それでいて逆に敢えて我々物語の外の者には彼らの心中が判りづらいという絶妙な仕立ての作品なので、考察や感想がとても秀逸なブログ主さんがそんな記事も書いてくださったら楽しいと思いました。
いつも主語と目的語をきっちり推測する過程など、ここが本当に好きです。
長々と失礼しました。