俺ガイル14巻の考察・感想【長文・ネタバレあり】

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』は14巻で完結となった。様々な見解があると思われるが、私なりの考察をした次第である。本稿は約13,000字の長文となっている。原作を2度読んで、考えられることは全て書いたつもりだ。是非とも最後まで読んで頂きたく思います。

本文や引用文中で、ページだけが書かれているものはこの14巻からの引用である。

※興味深いコメントをたくさん頂いていますので、是非とも併せてご覧頂ければと思います。一つ一つには返信していないのですがきちんと読ませて頂いております。

目次

雪ノ下陽乃についての考察

陽乃はプロムの何が気に入らなかったのか?

物語が後半に差し掛かる部分から考察を始める。卒業式後のプロムは大過なく実現したものの、陽乃はそれに納得していないようである。

「あ、勘違いしないでね。家のことなんて正直どうでもいいのよ? わたしは別に家継ぎたいわけじゃないし」
「こんな結末が、わたしの二十年と同じ価値だなんて、認められないでしょ。もし、本気で譲れっていうならそれに見合うものを見せてほしいのよね」

P272-273

これまでの物語で、陽乃は母に問答無用で家の後継ぎとして運命づけられていると示唆されてきた。家の仕事とは、父の建設会社社長兼県議会議員である。加えて言えば、葉山家はその顧問弁護士をしているらしく、葉山との政略結婚をさせられつつあるのではないかという話もあった。

陽乃はそのような自らに降りかかる事情を良しとしているわけではないらしいけれど、20年という人生を、宿命を受け入れる準備期間として過ごしてきた。それを茶番で偽物めいたままごとみたいなプロムが成功したからといって、納得はできない。なぜなら、このプロム実現は比企谷が13巻最後で用いた奇策によって成り立ったものだからである。

雪乃はただそこに用意されたプロムを、ただそこにあったプラモデルを組み立てるように粛々と実現したに過ぎない。暇つぶしでそこにあったから作ったプラモデルと、渇望して本気で作ったプラモデルは、形になって完成してしまえば見分けがつかない。しかし、陽乃、雪乃の母、そして読者は、このプロムが「そこにあったから作ったプラモデル」みたいなものだと見抜いている。

代償行為とは何か?

雪乃が「父の仕事を継ぎたい」と思っているのは事実である。しかし、その動機が「代償行為」であると陽乃は言っている。何の代償か? これは明確に「比企谷に思いを寄せていること」と言い切っていいと思われる。

なぜ代償になってしまったのか。これは原作11巻最後(アニメ2期13話最後)の由比ヶ浜の提案を受けてのことだろう。私はこの抽象的な由比ヶ浜の台詞の真意は「ゆきのんがヒッキーを好きなのは知っているが、諦めてくれ」という意味だと解釈している(参考記事:『俺ガイル。続』13話(最終話)の考察)。受動的な雪乃はこれを受け入れるしかない。そもそも雪乃はバレンタインに比企谷へのプレゼントを用意していながらも自ら渡すことができなかった。

雪乃が創設したという奉仕部からして「持ち込まれた依頼を解決する」という受け身の理念である。比企谷への思いを由比ヶ浜に譲ったのか、ただ単に諦めたのかはさておき、雪乃は自分自身について「自分から比企谷に思いを伝える資格がない」と認識して、今に至るに違いない。

ちなみに、12巻冒頭での由比ヶ浜の台詞「ゆきのんの答えは、それ、なのかな……」(P49)についても、それが代償行為なのではないかと示唆するものである。由比ヶ浜は間違えないし、勘が鋭い。

雪ノ下陽乃とは何者だったのか?

物語の中で陽乃とはどういう役割を担った存在だったのだろうか。

ひとつは、奉仕部や比企谷の現状について、一言でタグ付けしカテゴライズしようとする存在である。「自意識の化物」「共依存」「代償行為」など。陽乃の視点は客観である。

それら陽乃の指摘に直面した奉仕部の面々は、自問し、悩みあがきながら乗り越えようとする。何によってか。主観によって、言い換えれば「今」によってである。

もうひとつは、陽乃は奉仕部の面々の現状を映す鏡になっていたのではないかということだ。陽乃は14巻でも本人の口から語られているように「20年間を騙し騙し諦めて過ごしてきた(大意)」。陽乃の言う「自意識の化物」も「共依存」も「代償行為」も、陽乃自身についても当てはまることではないだろうか。

「自意識」とは「自分はこうあるべきという意識」のことであり、「自分は家を継ぐべき」と騙し騙しやってきた。「共依存」も、母と陽乃の関係についてあてはめることができるだろう。依存していないなら勝手に家を飛び出すでもすればいいのだ。「代償行為」については言うまでもあるまい。跡継ぎになると意識すること自体が陽乃の自由な人生に対する代償行為だ。

陽乃は停滞や後退のメタファーである。比企谷たちに前向きなアドバイスとしての挑発をしていたのか、それともただ単に彼らを自分と同じように停滞の渦に引きずり込みたかったのかは不明だが、奉仕部の面々は陽乃の言葉たちによって気づきを得て、それを乗り越えていくこととなった。

「平塚先生 vs 陽乃」という構図

平塚先生は「一言で済まないならいくらでも言葉を尽くせ。言葉さえ信頼ならないなら、行動も合わせればいい」(P307)と比企谷にアドバイスを送っている。これは陽乃が「共依存」などと彼らの関係を一言でタグ付けしにかかっていたのとは対照的だ。

原作11巻(アニメ2期12話のバレンタイン回)で平塚先生は下記のように比企谷に言っている。

「いいイベントになったな。(略)もっとも、歩みを止めてしまった者からすると進んだ距離の分だけ裏切られたようにも感じるものだが。いま近い場所で、この光景を見られて良かったよ」

この「歩みを止めてしまった者」というのは陽乃のことを指していると見て間違いない。平塚先生は彼らの「今」を肯定して後押しするが、宿命を受け入れて歩みを止めている陽乃に「今」は存在しない、あるいは手の届かない憧れみたいなものなので、感情的にそれを否定するしかない。

平塚先生は陽乃の言う「共依存」を否定するが、それは「共依存では絶対にない」というよりは、「共依存なんて一言で片付けられる人間関係なんて存在しない」というニュアンスだと思う。彼らは彼らだけの「今」を前を向いて生きている。今を生きるあらゆる感情に名前なんて付けられないし、「今」は更新され続け、感情も更新され続ける。まして第三者にそれをタグ付けされるなんて許されない。

だから「一言で済まないならいくらでも言葉を尽くせ。言葉さえ信頼ならないなら、行動も合わせ」ることだけが、今を生きるための唯一の手段だ。

 

比企谷八幡についての考察

由比ヶ浜のお願いを叶える

比企谷は雪乃の「由比ヶ浜さんのお願いを叶えてあげて」(13巻P357)という言葉を叶えるために、由比ヶ浜のお願いを聞き出し、叶えようとする。これらのシーン、比企谷は徹底的に受動である。「叶えてあげて」と言われたから叶えているだけ。意志が全くない。ロボットでもできることをやっている。

比企谷は由比ヶ浜に対しては、居心地は良いが自分から何かをしてあげられる存在とは思っていないのかもしれない。由比ヶ浜からはいつも与えられてばかりいて、比企谷は「与えられるものは全て偽物」と現状は考えている。その比企谷の受動的な側面を炙り出すために、物語では比企谷をロボット化させたと考えるのが自然かなと思った。

カラオケ、フルーツタルトの意味は??

例えば、俺ガイル12巻前半では、小町とのやり取りや川崎さんの妹とのエピソードなどに終始し、本題のプロムが出てくるのは物語の後半である。しかし、この前半のエピソードが比企谷の「おせっかい」「過保護」な側面を炙り出す問題提起になっていた(参考記事:『俺ガイル。』原作12巻の感想と考察)。

続く13巻でも、冗長とも思える玉縄とのシーンは、比企谷のダミープロム立案がどのように間違っているかを細かく指摘したものになっていた(参考記事:俺ガイル原作13巻の感想と考察)。俺ガイルには意味のないシーンがあるようには思えない。

しかし、この最終巻の前半部分、打ち上げのカラオケで意味のあるシーンは葉山、三浦との会話くらいであったと推測され、由比ヶ浜宅でのフルーツタルト作りに至っては伏線みたいなものが全く見られなかった。読み飛ばしても構わないんじゃないかとさえ思った。最終巻であるにも関わらず。

私の読み込みが浅いのは重々承知しているが、これらのシーンは何だったのだろうと考えているところである。

「酔えない」とは何か?

陽乃に「酔えない」と初めて指摘されるのは12巻である。「酔えない」とは「どんな時も他人事のように感じる」(12巻P92より大意)という意味だろうか。

しかし、比企谷はこの14巻、卒業式で号泣している通り、結構酔っている。その後、陽乃にさらに「君は酔えない」(P288)と改めて指摘されているが、どうなんだろう。陽乃が停滞のメタファーであり鏡であるなら、比企谷はこの「酔えない」を受け入れるにしろ克服するにしろ、乗り越えなければ物語は前進しないことになる。

「酔えない」が停滞を意味するならば、「酔う」は「今」「本物」などと言い換えることができそうである。そう考えれば、比企谷は「酔えない」を克服したと見ていいように思われるものの、いまいち考察が伸びないのが現状である。

ダミープロム実現の意味

比企谷は前13巻で立案した当て馬としてのダミープロムを実現させようとする。果たしてこれにはどんな意味があるのだろうか。

ひとつは「偽物」を「本物」に仕立て上げることである。比企谷がこれまで物語の中でやってきた行為は自己犠牲であり、誤魔化しであり、外野からあれこれ手出しして虚像を屹立させることであった。前13巻でのダミープロム立案はその集大成であるように思えた。その偽物めいたダミープロムを自らと雪ノ下の手によって本物にすることによって、これまでの奉仕部の活動が無駄ではなかったことを示すことができる。

もうひとつは、雪乃が本当に自分に意志で物事を成し遂げることである。雪乃がこのダミープロム実現を義務として受け入れなければならない理由は何一つない。もうプロムは終わっているし、(比企谷以外の)誰に望まれていることでもないし、受け入れたとしてリスクしかない。しかし、雪乃はそれを裸一貫の自分の意志で実行することを決める。

あるいは、もしかしたらこのダミープロム実現を比企谷の「本物が欲しい」という「依頼」の延長線上とみなして受け入れたのかもしれない。

 

由比ヶ浜結衣についての考察

なぜ由比ヶ浜は選ばれなかったのか

私は過去記事でも指摘してきた通り、俺ガイルの物語は「比企谷と雪ノ下の成長物語 + 比企谷と由比ヶ浜の恋愛物語」だと思っていた。しかし、蓋を開けてみれば雪ノ下エンドにて物語は幕を下ろした。なんでやねん。

とは言え、なんでやねんと悪態をついてばかりもいられないし、これは比企谷の選択だ。まずはなぜ由比ヶ浜は選ばれなかったのかを考えてみたい。

前述の通り、比企谷には「与えられるものは全て偽物」との信念があり、由比ヶ浜は与えてくれる人である。比企谷に何かを提案するのはいつも由比ヶ浜だし、比企谷の抽象的な言い回しも全て理解して翻訳することができる。そんな由比ヶ浜との日々を比企谷は非常に心地よく思っている。しかし、比企谷はそれをいつまでも続く惰性であると考えている節がある。

比企谷は安定を全く望んでいない。人を信じようともしていないし、何なら「本物を探求するために疑い続ける」(P505より大意)とまで言っている。ちなみに、由比ヶ浜は比企谷のそれらを全部わかっていたようで「本物なんて、ほしくなかった」(12巻P99)と独白している。

ネガティブな言い方をすれば「与えられるものへの疑念を払拭できなかった」というところだろうか。これについては以降も検証していく。

由比ヶ浜は間違えない

しかし、11巻から12巻で指摘されてきた通り「由比ヶ浜は間違えない」。この物語において、由比ヶ浜は常に正しい。

そう考えれば、メタ視点では由比ヶ浜エンドはおそらく正しい。だけど、この物語は比企谷の「まちがった青春ラブコメ」を描く物語である。平易で「正しい」由比ヶ浜エンドを選ばずに、茨の道の「まちがった」雪ノ下エンドを選んだともみなすことができよう。仮にそれがまちがった選択だとしても、比企谷は間違いを問い直して前進することができるのだ。

わたしは、わたしたちは、初めて本当に恋をした

当然ながら「わたしたち」とは由比ヶ浜と誰のことを指し、それぞれの恋する対象は誰なのかという疑問がある。

1.わたしたち=由比ヶ浜と雪ノ下が比企谷に恋をした

二人で比企谷を争い、由比ヶ浜が恋に敗れ、比企谷と雪ノ下が両思いになったということである。結果的に確かにそうなっている。

2.わたしたち=由比ヶ浜は比企谷に、比企谷は雪ノ下に恋をした

由比ヶ浜は比企谷の恋愛対象にならず、比企谷は雪ノ下に恋をしたということである。これも結果的に確かにそうなっているように見える。

3.わたしたち=由比ヶ浜と比企谷が両思いであった

この可能性はどうだろう。あるんじゃないか。これついても後に考察する。

 

なぜ雪乃が選ばれたのか

手放したら二度と掴めない

比企谷「……手放したら二度と掴めねぇんだよ。お前は望んでないかもしれないけど……、俺は関わり続けたいと、思ってる」

(P393, 395)

雪乃が比企谷に選ばれた理由は本文で説明し尽くされている。つまり「手放したら二度と掴めないから、関わり続けたい」ということ。このまま部活がなくなり、受験を経過して卒業しバラバラになる。同窓会的なものを定期的に開くとしても、やがてそれぞれの日常に埋没して疎遠になる。だいたいにして比企谷と雪乃はそういった定期的に開かれる同窓会的なものを馴れ合いの極致とみなしており、そもそも参加することはないだろう。

比企谷も雪乃も理由がなければ動き出すことができない。それはこの最終巻まで変わることはなかった。奉仕部がなくなり、学校がなくなれば、彼らには連絡を取り合う理由はなくなる。さようなら。

だから、繋ぎ止める理由が欲しい。雪乃に対してはさようならで済ませたくない、と「今」比企谷は思っている。そうして捻り出した「理由」が「ダミープロムの実現」であり「お前の人生歪める権利を俺にくれ」(P395)だった。

潤滑油としての由比ヶ浜

彼らの関係は、比企谷がこんなことをしなくても続いていたかもしれない。なぜなら由比ヶ浜がいるからである。由比ヶ浜は理由がなくても動き出せる。由比ヶ浜発信で定期的に集まることは可能だし、由比ヶ浜ならきっとそうするだろう。

だけど、それは馴れ合いである。理由もなくだらっと集まることは、少なくとも比企谷にとっては耐えられることではない。また、由比ヶ浜が集まろうとしなくなったら彼らの関係はそれで終わってしまうだろう。

比企谷と雪乃の関係は、奉仕部という理由、由比ヶ浜という理由があって成り立っていたものだった。しかし、他人から与えられるものはいつかなくなる偽物だ。だから、比企谷は由比ヶ浜に頼ることなく、自分で理由を作り上げた。

「責任」とは何か?

「責任」という言葉が物語で初めて意味を持って登場するのは、おそらく原作9巻(アニメ2期8話)の「あなた一人の責任でそうなっているなら、あなた一人で解決するべき問題でしょう」という雪乃の台詞である。この頃の雪乃は感情を表現することに躊躇いが見られ、論理性・一貫性に基づいて行動していたので「自分の責任なら自分一人で解決すべき」と比企谷の依頼を突き放した。

しかし、この最終巻で雪乃は比企谷の「責任、とりたいというか、とらせてくれというか」(P394)という台詞に全く嫌悪していない。雪乃が論理性を放棄し、感情を回復している証左である。これはもう殆ど由比ヶ浜のおかげと言って差し支えない。由比ヶ浜は常に雪乃に感情でぶつかっていた(参考記事:『俺ガイル。続』第8話の感想・考察その2)。

前13巻でも比企谷は「責任」という言葉を随分使っていたが、比企谷は責任を取るために当て馬としてのダミープロムという「偽物」を作り上げていた。しかし、ここでは「本物」としてのダミープロムの実現をする一環として「責任」という言葉を使っている。そこが大きく違う。

比企谷の言う「責任」とは、関わったことへの責任、これから関わり続けることへの責任、つまりは、自分のわがままで雪乃の人生に影響を与えてしまう(歪める)ことに対する責任である。それと共に、比企谷が責任を一手に引き受けることで、これまでの奉仕部の活動を「なかったことにしない」という作用があると思われる。

修学旅行回との関連

原作7巻(アニメ2期2話)の修学旅行回で、戸部は海老名さんに告白をしようとする。その理由は、海老名さんを「なくしたくない、その手に掴んでおきたい」からである。この最終巻での比企谷の雪乃へのアプローチの動機は、このときの戸部と全く一緒である。

比企谷は「なくしたくない、その手に掴んでおきたい」という彼ら三者(葉山、戸部、海老名さん・あーしさん)の思いに少なからず共感した。比企谷の中にも奉仕部、あるいは雪乃を「なくしたくない、その手に掴んでおきたい」という感情があることに気づいたからである(参考記事:『俺ガイル。続』第2話の感想・考察)。

そもそも、奉仕部の関係がこじれてしまった端緒はこの修学旅行回にあったと見ていい。比企谷は彼らに共感したからこそ嘘の告白をするという偽物を打ち立て、彼らの馴れ合いの関係を持続させた。比企谷には「嘘や欺瞞や馴れ合いは要らない」という信念があったにも関わらず。そしてその信念を雪乃と共有していたにも関わらず。

この修学旅行回の告白で、比企谷は「(葉山たちの)馴れ合いを持続させるため」に「何とも思っていない相手(海老名さん)」に告白した。しかし、この最終巻では「(自分たちの)馴れ合いを排除するため」に「本当になくしたくない相手(雪乃)」に告白をすることが対照となっている。それに加えて「なくしたくない、その手に掴んでおきたい」という比企谷の新たな信念も雪乃と共有できている。

雪乃は自立できたのか?

原作12巻からは、雪乃の自立というところに焦点が当たっていた。果たして雪乃は自立できたのだろうか。

その前に、果たして「自立」とは何だろうか。おそらく雪乃は第一弾のプロム開催にあたっては「誰にも頼らない」ことを自立とみなしていたように思う。少なくとも比企谷に頼ることは頑なに拒絶していた。

しかし、これは物語とは関係ない一般的な話になるが、自立とは「頼れる人を見つけること」「依存先を見つけること」「助けて欲しい時に助けて欲しいと言えること」「自己実現する能力」などという考え方もあるという。異論はあるかとは思われるが、よく考えてみれば、誰にも頼らずに誰にも依存しない人生なんて不可能だし、虚しいように思える。

そう考えれば、ダミープロム実現をすることによって、雪乃は「自分で選んだ」ダミープロムを「自己実現」し、比企谷という「頼れる人」とパートナーになることができた。充分に自立はできたと考えていいと思う。

雪乃は比企谷のどこが好きなのか?

雪乃が比企谷のどこに惹かれて好きなのか、あるいはいつから好きなのかが全く描かれていない、という批判がおそらくある。これは比企谷にも言えることで、雪乃を好きな理由や動機は描かれていない。

しかし、我々の実際の恋愛を顧みてみればどうだろう。例えば「落とし物を拾ってもらったから好きになった」とか、「この一言をかけてもらったから好きになった」とか、そういう明確に「好きになった理由」があるだろうか。殆どの場合は、なんとなく気が合ったとか、なんとなくの雰囲気に惹かれたとか、なんとなく一緒に過ごしてたらそうなってたとか、一言で語れる理由なんてないのが実情ではないか。

昔のわかりやすいメロドラマであれば、そういう「ずきゅーん!今好きになりました!」みたいな瞬間が必ず描かれていたように思われるが、現代的でリアルな恋愛物語においては「好きになった理由」は殆ど描かれないように思う(あまつさえ「好きになった理由」を明確に持つ者が敗北する物語さえ散見され、由比ヶ浜もその例に漏れない)。

例を挙げるのが適切かどうかはわからないが、私が個人的にリアルだなと思った『Just Because!』も『月がきれい』もそういう瞬間や明確な「好きな理由」はなかったし、敢えて描くのを避けていたようにさえ思う。

逆に『多田くんは恋をしない』には明確な「ずきゅーん!」があって、この物語はまず設定からしてファンタジーめいているので、リアルというよりは寓話みたいなものかなと思った(批判ではありません、面白く見させて頂きました)。

主観による余談が過ぎたかもしれない。本論に立ち戻る。従って、比企谷と雪乃の「好きな理由」みたいなものは、明確にしなくても、これまでのストーリーからなんとなく感じ取れば良いのだと思う。彼らが惹かれ合ったという結果が全てだ。

そもそも本人たち自身がよくわかっていない可能性もあるし、俺ガイルの物語はそういった「言語化」に慎重に作られている。好きな理由を説明した途端に野暮ったくなってしまう。

雪乃「あなたが好きよ。比企谷くん」

押し付けられた紙を見ると、真っ黒なカンバスの中に、白抜きでスキと書いてある。
平塚先生「どんな言葉でもどんな行動でもいいんだ。その一つ一つをドットみたいに集めて、君なりの答えを紡げばいい。キャンバスの全部を埋めて、残った空白が言葉の形をとるかもしれない」

P307-308

平塚先生からのアドバイス後、比企谷は雪乃への告白シーンにおいて、核心に触れない言葉をいろいろ用いて気持ちを伝える。

雪乃「……なんで、そんなどうでもいいバカみたいな言葉はぺらぺら出てくるの。もっと他に言うことあるでしょう」
比企谷「言えねぇだろ。……こんなの、言葉になってたまるかよ」

P397

比企谷がいろいろぺらぺらと語った言葉がキャンバスを黒塗りで埋めていき、そこに雪乃の「あなたが好きよ」が白抜きで残り、キャンバスは完成された。

死ぬほど可愛い

──けど、死ぬほどめんどくさいところが、死ぬほど可愛い。

P512

これまでの物語では比企谷は雪乃に対する印象として「美しい」というニュアンスで独白していた。しかし、雪乃とパートナーになってから、デレにデレるデレ谷は「可愛い」という言葉を用いる。おそらく「好き」というような意味で「可愛い」と言っているのだと思うが、なぜ可愛いなのか。

脱線するが、言葉のスペシャリストである劇作家の平田オリザ氏は著書で下記のように述べている。

ここに一つだけ、現代日本語にも、非常に汎用性の高い褒め言葉がある。
「かわいい」
これはとにかく、何にでも使える。(略)
「対等な関係における褒め言葉」という日本語の欠落を「かわいい」は、一手に引き受けて補っていると言ってもいい。

『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』講談社現代新書、P116-117

そう考えれば、比企谷が(つまり著者が)ここで「可愛い」という表現を用いたのはとても秀逸だ。「かわいい」は汎用性が高く、対等で、いい意味で曖昧だ。「対等な関係」というのも雪ノ下エンドの一つの理由なのではないかと思う。

比企谷は絶対に「好き」や「愛してる」なんて言わない。それは彼にとっての空白部分だからだ。だとすれば、他にどんな言葉で表現すればいいだろうと考えた場合、「可愛い」は最も適切なように思える。比企谷はデレながらも意図して「可愛い」と地の文で言っているのだろう。

 

葉山、陽乃は救われたのか?

この最終巻で葉山と陽乃にも何らかの明確なハッピーエンドがもたらされると思っていたが、描かれることはなかった。下記で彼らについて考察していきたい。

陽乃について

比企谷と雪乃がダミープロムを実現させたことについて、陽乃がどう思っているのかは描かれないが、おそらく納得したのであろう。陽乃は後継ぎとして家に囚われていたが、雪乃が家を継ぐことによって自由の身になることができる。

ここから陽乃の本当の人生が始まる。「歩みを止めてしまった者」ではもういられない。家に依存はできない。「酔えない」なんて言っていられない。自分の足で歩き出さなくてはならない。代償行為でない自己実現を自分の頭で考えなければならない。

奉仕部メンバーがこの一年、考え、苦しみ、悩み、問い直し続けながら前進してきたのと同じことを陽乃は今後の人生で成し遂げ、克服しなければならない。奉仕部にもできたのだから、陽乃にもできるはずだ。

葉山について

「君が誰かを助けるのは、誰かに助けられたいと願っているからじゃないのか」
原作8巻、アニメ2期4話

「君を褒めるのは、俺のためだ」
原作9巻、アニメ2期10話

上記引用の通り、葉山は以前から「比企谷に助けられたい」と願っていたことが示唆されている。比企谷には周囲の人間を変える力があると見込んでいたようだ。この結末通りの「比企谷が雪乃とパートナーになり、比企谷が雪ノ下家と関わることで責任を取る」という詳細な部分まで見越していたかどうかは不明だが、雪ノ下家との政略結婚をさせられつつあった葉山も「何も選ばない」「呪われている」から解放される。雪ノ下家において葉山のポジションには比企谷が就くであろうからである。

葉山の呪われていない人生もここから始まるし、自分で道を選ばなくてはならない。

かつて描かれた「好きな人Y」について、それが誰を指すのかは明確にならなかった。仮にそれが雪ノ下陽乃を指すのであれば、自由になった二人のこれまでとは違った新たな関係を見てみたいと思う。

ちなみに、葉山家は雪ノ下家の顧問弁護士をしていたようで、政略結婚というのがどのような意味を持つのか私は無知でよくわからないのだけれど、比企谷が雪ノ下家と密に関わるのであれば、その論理性と問題解決能力、「どうでもいいバカみたいな言葉はぺらぺら出てくる」才能を生かして、比企谷は将来、弁護士にでもなるのだろうか。

 

わたしたち=比企谷と由比ヶ浜両思い説を検証する

話は遡って、第6章「いつかのように、由比ヶ浜結衣は希う」で展開されている比企谷と由比ヶ浜の会話の真意は一体何なのだろう、ということを下記で検証していく。

「この子にだけは嫌われたくないから」

比企谷は由比ヶ浜について「俺は世界でただ一人、この子にだけは嫌われたくないから」(P330)と結構都合の良いことを独白しているのだが、それは比企谷が由比ヶ浜に対して「間違いを問い直すことができない存在」とみなしているのかもしれない。嫌われたら問い直せばいいのに、なぜか由比ヶ浜に対してのみそれが許されない。

それは由比ヶ浜が「正しい」からだろうか。正しさの前では、問い直すことができない。

由比ヶ浜の「お願い」は本音か?

由比ヶ浜の一番の「お願い」は「全部欲しい」であり、それは「ヒッキーとゆきのんがいるところにあたしもいたいって思う」(P338)と言った。これは本音だろうか?

由比ヶ浜はその前に「これで、ほんとにいいと思う?」(P329)と比企谷に問うた上で「ちゃんと考えて答えて。もし、本当にいいなら、本当に終わりなら。あたしのお願いちゃんと言うから。……本当に、大事なお願い」(同上)と言っている。で、比企谷は「……いいとは思ってない」(P330)と本音を伝え、雪乃と疎遠になりたくない旨を告げる。

さて、由比ヶ浜は「本当に終わりなら、お願いをちゃんと言う」と言っている。そして、比企谷は終わりにしなかった。ということは、由比ヶ浜は「お願いをちゃんと言っていない」ということにならないだろうか。つまりは「ヒッキーとゆきのんがいるところにあたしもいたいって思う」というお願いは、嘘とは言わないまでも、一番のお願いではない可能性がある。

由比ヶ浜の最後のinterludeで、いろはの「諦めないでいいのは女の子の特権です!」(P481)について「あたしの心からの声だ」(P482)と共感している。とすれば「ヒッキーとゆきのんがいるところにあたしもいたいって思う」は比企谷を諦めないという意味にも解釈できないだろうか。

「……面倒かけて、悪いな」

比企谷は由比ヶ浜に何の「面倒」をかけたのだろうか。おそらくは、比企谷が雪乃に思いを伝える後押しを由比ヶ浜にさせてしまったことについてであると思われるが、他にも解釈の余地があるようにも思える。

「……けど、お前はそれを待たなくていい」

「いつかもっとうまくやれるようになる。こんな言葉や理屈をこねくり回さなくても、ちゃんと伝えられて、ちゃんと受け止められるように、たぶんそのうちなると思う」
まとまりきらない言葉を、ゆっくり慎重に口にする。いずれ、俺が少しはマシな大人の男になれば、こんなことだって躊躇わずに言えるようになるのかもしれない。もっと別の言葉を、違う気持ちをちゃんと伝えられるようになるのかもしれない。
「……けど、お前はそれを待たなくていい」

(P340-341)

由比ヶ浜の印象的な台詞に「待っててもどうしようもない人は待たない。待たないでこっちから行くの」(原作7巻、アニメ1期11話及び2期9話)がある。従って、由比ヶ浜はそもそも待っていない。それにも関わらず、比企谷はなぜ「待たなくていい」などという決め台詞を吐いたのだろうか。

考えられることは、比企谷は自らについて「待っててもどうしようもない人」への格下げを画策したのではないかということである。つまりは、ざっくばらんに言ってしまえば「俺は待っててもどうしようもない人だから、そっちから来なくていい」ということだ。

上記引用文全体の真意は何だろうか。もしかしたら「比企谷は由比ヶ浜とは”現時点で”付き合うに足りる釣り合いが取れていないと思っている」という意味に解釈できないだろうか。「もっと別の言葉を、違う気持ちを」とはおそらく由比ヶ浜へ矛先が向いている。

比企谷は由比ヶ浜を「憎からず思っている相手」(12巻P315)と表現している。三省堂大辞林第三版によれば「憎からず」とは下記の意味である。

① 愛情を感じてはいるが、それを直接表さず、いやではないと間接的に表す語。かわいい。
② 好感がもてる。感じがよい。

日本の大和言葉において「憎からず」とはおおよそ①の意味で用いられ、慕情の表現として用いられているようだ。つまりは、恋い慕っている、惹かれているということ。

比企谷の感情という重要な部分が、用例が比較的少ないと思われる②の意味の軽い感じで「憎からず」と表現されているとは思えない。とすれば、たぶん比企谷は由比ヶ浜に愛情を感じている。つまり、好きだ。

だけど、由比ヶ浜はあまりにも正しすぎ、大人すぎる。それに対して比企谷は拗らせすぎている。釣り合いが取れないし、正しい由比ヶ浜に対しては比企谷が何かを問い直すことができないし、そうであれば馴れ合いの中で関係が雲散霧消してしまうかもしれない。

比企谷が「今」すべきことは優しい由比ヶ浜との心地よい日々を過ごすことではなく、「もっとうまくやれるようになる」ように向上していくことだ。「もっとうまくやれるようになる」ためには、由比ヶ浜から自立し、雪乃と切磋琢磨していく必要がある。

改めて「わたしたち」とは何か?

わたしは、わたしたちは、初めて本当に恋をした。

P345

1.わたしたち=由比ヶ浜と雪ノ下が比企谷に恋をした

ストーリー上、最もしっくりくる解釈である。

2.わたしたち=由比ヶ浜は比企谷に、比企谷は雪ノ下に恋をした

「好きだなんて、たった一言じゃ言えない」(P345)というのは、比企谷による雪乃への感情から影響された由比ヶ浜の独白である。従って、文脈を見た場合はこの解釈が自然である。しかし、比企谷の雪乃への感情を「恋」とたった一言でカテゴライズするのはどうなんだろうとは思う。

3.わたしたち=由比ヶ浜と比企谷が両思いであった

この項で述べてきたのはこの可能性である。比企谷は由比ヶ浜を憎からず思っている(恋している)。しかし、由比ヶ浜とは「今」は釣り合いが取れないし、自分自身のために「もっとうまくやれるように」ならなくてはならないし、「今」離したくないのは雪乃に対してであった。つまり、雪乃は「恋」以上の存在であり、雪乃を選んだ。

比企谷は、だらっと居心地よく続く恋や未来よりも、離したくない「今」と、問い直して続いていく未来を選んだ、という解釈である。

 
──もちろん、これは穿った見方である。本当かどうかはわからない。だけど、多様な解釈ができる俺ガイルにおいて、このような説を提示しておき、「まーそうとも読めるかなー」と思ってもらうのも一興かと思い、一つのアンチテーゼとして提示しておいた。私を含めて由比ヶ浜エンドを期待していた人たちのささやかな癒やしでもになれば幸いである。

 
※『俺ガイル』他の考察記事はこちら:
やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。カテゴリ

 
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