俺ガイル14巻の考察・感想【長文・ネタバレあり】
『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』は14巻で完結となった。様々な見解があると思われるが、私なりの考察をした次第である。本稿は約13,000字の長文となっている。原作を2度読んで、考えられることは全て書いたつもりだ。是非とも最後まで読んで頂きたく思います。
本文や引用文中で、ページだけが書かれているものはこの14巻からの引用である。
※興味深いコメントをたくさん頂いていますので、是非とも併せてご覧頂ければと思います。一つ一つには返信していないのですがきちんと読ませて頂いております。
※俺ガイル完(3期)についても放送後順次考察しています。「俺ガイル完カテゴリ」をご覧ください。
※他にも俺ガイル考察記事ございますので、「俺ガイルカテゴリ」からご覧くださいませ。
雪ノ下陽乃についての考察
陽乃はプロムの何が気に入らなかったのか?
物語が後半に差し掛かる部分から考察を始める。卒業式後のプロムは大過なく実現したものの、陽乃はそれに納得していないようである。
「あ、勘違いしないでね。家のことなんて正直どうでもいいのよ? わたしは別に家継ぎたいわけじゃないし」
「こんな結末が、わたしの二十年と同じ価値だなんて、認められないでしょ。もし、本気で譲れっていうならそれに見合うものを見せてほしいのよね」P272-273
これまでの物語で、陽乃は母に問答無用で家の後継ぎとして運命づけられていると示唆されてきた。家の仕事とは、父の建設会社社長兼県議会議員である。加えて言えば、葉山家はその顧問弁護士をしているらしく、葉山との政略結婚をさせられつつあるのではないかという話もあった。
陽乃はそのような自らに降りかかる事情を良しとしているわけではないらしいけれど、20年という人生を、宿命を受け入れる準備期間として過ごしてきた。それを茶番で偽物めいたままごとみたいなプロムが成功したからといって、納得はできない。なぜなら、このプロム実現は比企谷が13巻最後で用いた奇策によって成り立ったものだからである。
雪乃はただそこに用意されたプロムを、ただそこにあったプラモデルを組み立てるように粛々と実現したに過ぎない。暇つぶしでそこにあったから作ったプラモデルと、渇望して本気で作ったプラモデルは、形になって完成してしまえば見分けがつかない。しかし、陽乃、雪乃の母、そして読者は、このプロムが「そこにあったから作ったプラモデル」みたいなものだと見抜いている。
代償行為とは何か?
雪乃が「父の仕事を継ぎたい」と思っているのは事実である。しかし、その動機が「代償行為」であると陽乃は言っている。何の代償か? これは明確に「比企谷に思いを寄せていること」と言い切っていいと思われる。
なぜ代償になってしまったのか。これは原作11巻最後(アニメ2期13話最後)の由比ヶ浜の提案を受けてのことだろう。私はこの抽象的な由比ヶ浜の台詞の真意は「ゆきのんがヒッキーを好きなのは知っているが、諦めてくれ」という意味だと解釈している(参考記事:『俺ガイル。続』13話(最終話)の考察)。受動的な雪乃はこれを受け入れるしかない。そもそも雪乃はバレンタインに比企谷へのプレゼントを用意していながらも自ら渡すことができなかった。
雪乃が創設したという奉仕部からして「持ち込まれた依頼を解決する」という受け身の理念である。比企谷への思いを由比ヶ浜に譲ったのか、ただ単に諦めたのかはさておき、雪乃は自分自身について「自分から比企谷に思いを伝える資格がない」と認識して、今に至るに違いない。
ちなみに、12巻冒頭での由比ヶ浜の台詞「ゆきのんの答えは、それ、なのかな……」(P49)についても、それが代償行為なのではないかと示唆するものである。由比ヶ浜は間違えないし、勘が鋭い。
雪ノ下陽乃とは何者だったのか?
物語の中で陽乃とはどういう役割を担った存在だったのだろうか。
ひとつは、奉仕部や比企谷の現状について、一言でタグ付けしカテゴライズしようとする存在である。「自意識の化物」「共依存」「代償行為」など。陽乃の視点は客観である。
それら陽乃の指摘に直面した奉仕部の面々は、自問し、悩みあがきながら乗り越えようとする。何によってか。主観によって、言い換えれば「今」によってである。
もうひとつは、陽乃は奉仕部の面々の現状を映す鏡になっていたのではないかということだ。陽乃は14巻でも本人の口から語られているように「20年間を騙し騙し諦めて過ごしてきた(大意)」。陽乃の言う「自意識の化物」も「共依存」も「代償行為」も、陽乃自身についても当てはまることではないだろうか。
「自意識」とは「自分はこうあるべきという意識」のことであり、「自分は家を継ぐべき」と騙し騙しやってきた。「共依存」も、母と陽乃の関係についてあてはめることができるだろう。依存していないなら勝手に家を飛び出すでもすればいいのだ。「代償行為」については言うまでもあるまい。跡継ぎになると意識すること自体が陽乃の自由な人生に対する代償行為だ。
陽乃は停滞や後退のメタファーである。比企谷たちに前向きなアドバイスとしての挑発をしていたのか、それともただ単に彼らを自分と同じように停滞の渦に引きずり込みたかったのかは不明だが、奉仕部の面々は陽乃の言葉たちによって気づきを得て、それを乗り越えていくこととなった。
「平塚先生 vs 陽乃」という構図
平塚先生は「一言で済まないならいくらでも言葉を尽くせ。言葉さえ信頼ならないなら、行動も合わせればいい」(P307)と比企谷にアドバイスを送っている。これは陽乃が「共依存」などと彼らの関係を一言でタグ付けしにかかっていたのとは対照的だ。
原作11巻(アニメ2期12話のバレンタイン回)で平塚先生は下記のように比企谷に言っている。
「いいイベントになったな。(略)もっとも、歩みを止めてしまった者からすると進んだ距離の分だけ裏切られたようにも感じるものだが。いま近い場所で、この光景を見られて良かったよ」
この「歩みを止めてしまった者」というのは陽乃のことを指していると見て間違いない。平塚先生は彼らの「今」を肯定して後押しするが、宿命を受け入れて歩みを止めている陽乃に「今」は存在しない、あるいは手の届かない憧れみたいなものなので、感情的にそれを否定するしかない。
平塚先生は陽乃の言う「共依存」を否定するが、それは「共依存では絶対にない」というよりは、「共依存なんて一言で片付けられる人間関係なんて存在しない」というニュアンスだと思う。彼らは彼らだけの「今」を前を向いて生きている。今を生きるあらゆる感情に名前なんて付けられないし、「今」は更新され続け、感情も更新され続ける。まして第三者にそれをタグ付けされるなんて許されない。
だから「一言で済まないならいくらでも言葉を尽くせ。言葉さえ信頼ならないなら、行動も合わせ」ることだけが、今を生きるための唯一の手段だ。
比企谷八幡についての考察
由比ヶ浜のお願いを叶える
比企谷は雪乃の「由比ヶ浜さんのお願いを叶えてあげて」(13巻P357)という言葉を叶えるために、由比ヶ浜のお願いを聞き出し、叶えようとする。これらのシーン、比企谷は徹底的に受動である。「叶えてあげて」と言われたから叶えているだけ。意志が全くない。ロボットでもできることをやっている。
比企谷は由比ヶ浜に対しては、居心地は良いが自分から何かをしてあげられる存在とは思っていないのかもしれない。由比ヶ浜からはいつも与えられてばかりいて、比企谷は「与えられるものは全て偽物」と現状は考えている。その比企谷の受動的な側面を炙り出すために、物語では比企谷をロボット化させたと考えるのが自然かなと思った。
カラオケ、フルーツタルトの意味は??
例えば、俺ガイル12巻前半では、小町とのやり取りや川崎さんの妹とのエピソードなどに終始し、本題のプロムが出てくるのは物語の後半である。しかし、この前半のエピソードが比企谷の「おせっかい」「過保護」な側面を炙り出す問題提起になっていた(参考記事:『俺ガイル。』原作12巻の感想と考察)。
続く13巻でも、冗長とも思える玉縄とのシーンは、比企谷のダミープロム立案がどのように間違っているかを細かく指摘したものになっていた(参考記事:俺ガイル原作13巻の感想と考察)。俺ガイルには意味のないシーンがあるようには思えない。
しかし、この最終巻の前半部分、打ち上げのカラオケで意味のあるシーンは葉山、三浦との会話くらいであったと推測され、由比ヶ浜宅でのフルーツタルト作りに至っては伏線みたいなものが全く見られなかった。読み飛ばしても構わないんじゃないかとさえ思った。最終巻であるにも関わらず。
私の読み込みが浅いのは重々承知しているが、これらのシーンは何だったのだろうと考えているところである。
「酔えない」とは何か?
陽乃に「酔えない」と初めて指摘されるのは12巻である。「酔えない」とは「どんな時も他人事のように感じる」(12巻P92より大意)という意味だろうか。
しかし、比企谷はこの14巻、卒業式で号泣している通り、結構酔っている。その後、陽乃にさらに「君は酔えない」(P288)と改めて指摘されているが、どうなんだろう。陽乃が停滞のメタファーであり鏡であるなら、比企谷はこの「酔えない」を受け入れるにしろ克服するにしろ、乗り越えなければ物語は前進しないことになる。
「酔えない」が停滞を意味するならば、「酔う」は「今」「本物」などと言い換えることができそうである。そう考えれば、比企谷は「酔えない」を克服したと見ていいように思われるものの、いまいち考察が伸びないのが現状である。
ダミープロム実現の意味
比企谷は前13巻で立案した当て馬としてのダミープロムを実現させようとする。果たしてこれにはどんな意味があるのだろうか。
ひとつは「偽物」を「本物」に仕立て上げることである。比企谷がこれまで物語の中でやってきた行為は自己犠牲であり、誤魔化しであり、外野からあれこれ手出しして虚像を屹立させることであった。前13巻でのダミープロム立案はその集大成であるように思えた。その偽物めいたダミープロムを自らと雪ノ下の手によって本物にすることによって、これまでの奉仕部の活動が無駄ではなかったことを示すことができる。
もうひとつは、雪乃が本当に自分に意志で物事を成し遂げることである。雪乃がこのダミープロム実現を義務として受け入れなければならない理由は何一つない。もうプロムは終わっているし、(比企谷以外の)誰に望まれていることでもないし、受け入れたとしてリスクしかない。しかし、雪乃はそれを裸一貫の自分の意志で実行することを決める。
あるいは、もしかしたらこのダミープロム実現を比企谷の「本物が欲しい」という「依頼」の延長線上とみなして受け入れたのかもしれない。
由比ヶ浜結衣についての考察
なぜ由比ヶ浜は選ばれなかったのか
私は過去記事でも指摘してきた通り、俺ガイルの物語は「比企谷と雪ノ下の成長物語 + 比企谷と由比ヶ浜の恋愛物語」だと思っていた。しかし、蓋を開けてみれば雪ノ下エンドにて物語は幕を下ろした。なんでやねん。
とは言え、なんでやねんと悪態をついてばかりもいられないし、これは比企谷の選択だ。まずはなぜ由比ヶ浜は選ばれなかったのかを考えてみたい。
前述の通り、比企谷には「与えられるものは全て偽物」との信念があり、由比ヶ浜は与えてくれる人である。比企谷に何かを提案するのはいつも由比ヶ浜だし、比企谷の抽象的な言い回しも全て理解して翻訳することができる。そんな由比ヶ浜との日々を比企谷は非常に心地よく思っている。しかし、比企谷はそれをいつまでも続く惰性であると考えている節がある。
比企谷は安定を全く望んでいない。人を信じようともしていないし、何なら「本物を探求するために疑い続ける」(P505より大意)とまで言っている。ちなみに、由比ヶ浜は比企谷のそれらを全部わかっていたようで「本物なんて、ほしくなかった」(12巻P99)と独白している。
ネガティブな言い方をすれば「与えられるものへの疑念を払拭できなかった」というところだろうか。これについては以降も検証していく。
由比ヶ浜は間違えない
しかし、11巻から12巻で指摘されてきた通り「由比ヶ浜は間違えない」。この物語において、由比ヶ浜は常に正しい。
そう考えれば、メタ視点では由比ヶ浜エンドはおそらく正しい。だけど、この物語は比企谷の「まちがった青春ラブコメ」を描く物語である。平易で「正しい」由比ヶ浜エンドを選ばずに、茨の道の「まちがった」雪ノ下エンドを選んだともみなすことができよう。仮にそれがまちがった選択だとしても、比企谷は間違いを問い直して前進することができるのだ。
わたしは、わたしたちは、初めて本当に恋をした
当然ながら「わたしたち」とは由比ヶ浜と誰のことを指し、それぞれの恋する対象は誰なのかという疑問がある。
1.わたしたち=由比ヶ浜と雪ノ下が比企谷に恋をした
二人で比企谷を争い、由比ヶ浜が恋に敗れ、比企谷と雪ノ下が両思いになったということである。結果的に確かにそうなっている。
2.わたしたち=由比ヶ浜は比企谷に、比企谷は雪ノ下に恋をした
由比ヶ浜は比企谷の恋愛対象にならず、比企谷は雪ノ下に恋をしたということである。これも結果的に確かにそうなっているように見える。
3.わたしたち=由比ヶ浜と比企谷が両思いであった
この可能性はどうだろう。あるんじゃないか。これついても後に考察する。
なぜ雪乃が選ばれたのか
手放したら二度と掴めない
比企谷「……手放したら二度と掴めねぇんだよ。お前は望んでないかもしれないけど……、俺は関わり続けたいと、思ってる」
(P393, 395)
雪乃が比企谷に選ばれた理由は本文で説明し尽くされている。つまり「手放したら二度と掴めないから、関わり続けたい」ということ。このまま部活がなくなり、受験を経過して卒業しバラバラになる。同窓会的なものを定期的に開くとしても、やがてそれぞれの日常に埋没して疎遠になる。だいたいにして比企谷と雪乃はそういった定期的に開かれる同窓会的なものを馴れ合いの極致とみなしており、そもそも参加することはないだろう。
比企谷も雪乃も理由がなければ動き出すことができない。それはこの最終巻まで変わることはなかった。奉仕部がなくなり、学校がなくなれば、彼らには連絡を取り合う理由はなくなる。さようなら。
だから、繋ぎ止める理由が欲しい。雪乃に対してはさようならで済ませたくない、と「今」比企谷は思っている。そうして捻り出した「理由」が「ダミープロムの実現」であり「お前の人生歪める権利を俺にくれ」(P395)だった。
潤滑油としての由比ヶ浜
彼らの関係は、比企谷がこんなことをしなくても続いていたかもしれない。なぜなら由比ヶ浜がいるからである。由比ヶ浜は理由がなくても動き出せる。由比ヶ浜発信で定期的に集まることは可能だし、由比ヶ浜ならきっとそうするだろう。
だけど、それは馴れ合いである。理由もなくだらっと集まることは、少なくとも比企谷にとっては耐えられることではない。また、由比ヶ浜が集まろうとしなくなったら彼らの関係はそれで終わってしまうだろう。
比企谷と雪乃の関係は、奉仕部という理由、由比ヶ浜という理由があって成り立っていたものだった。しかし、他人から与えられるものはいつかなくなる偽物だ。だから、比企谷は由比ヶ浜に頼ることなく、自分で理由を作り上げた。
「責任」とは何か?
「責任」という言葉が物語で初めて意味を持って登場するのは、おそらく原作9巻(アニメ2期8話)の「あなた一人の責任でそうなっているなら、あなた一人で解決するべき問題でしょう」という雪乃の台詞である。この頃の雪乃は感情を表現することに躊躇いが見られ、論理性・一貫性に基づいて行動していたので「自分の責任なら自分一人で解決すべき」と比企谷の依頼を突き放した。
しかし、この最終巻で雪乃は比企谷の「責任、とりたいというか、とらせてくれというか」(P394)という台詞に全く嫌悪していない。雪乃が論理性を放棄し、感情を回復している証左である。これはもう殆ど由比ヶ浜のおかげと言って差し支えない。由比ヶ浜は常に雪乃に感情でぶつかっていた(参考記事:『俺ガイル。続』第8話の感想・考察その2)。
前13巻でも比企谷は「責任」という言葉を随分使っていたが、比企谷は責任を取るために当て馬としてのダミープロムという「偽物」を作り上げていた。しかし、ここでは「本物」としてのダミープロムの実現をする一環として「責任」という言葉を使っている。そこが大きく違う。
比企谷の言う「責任」とは、関わったことへの責任、これから関わり続けることへの責任、つまりは、自分のわがままで雪乃の人生に影響を与えてしまう(歪める)ことに対する責任である。それと共に、比企谷が責任を一手に引き受けることで、これまでの奉仕部の活動を「なかったことにしない」という作用があると思われる。
修学旅行回との関連
原作7巻(アニメ2期2話)の修学旅行回で、戸部は海老名さんに告白をしようとする。その理由は、海老名さんを「なくしたくない、その手に掴んでおきたい」からである。この最終巻での比企谷の雪乃へのアプローチの動機は、このときの戸部と全く一緒である。
比企谷は「なくしたくない、その手に掴んでおきたい」という彼ら三者(葉山、戸部、海老名さん・あーしさん)の思いに少なからず共感した。比企谷の中にも奉仕部、あるいは雪乃を「なくしたくない、その手に掴んでおきたい」という感情があることに気づいたからである(参考記事:『俺ガイル。続』第2話の感想・考察)。
そもそも、奉仕部の関係がこじれてしまった端緒はこの修学旅行回にあったと見ていい。比企谷は彼らに共感したからこそ嘘の告白をするという偽物を打ち立て、彼らの馴れ合いの関係を持続させた。比企谷には「嘘や欺瞞や馴れ合いは要らない」という信念があったにも関わらず。そしてその信念を雪乃と共有していたにも関わらず。
この修学旅行回の告白で、比企谷は「(葉山たちの)馴れ合いを持続させるため」に「何とも思っていない相手(海老名さん)」に告白した。しかし、この最終巻では「(自分たちの)馴れ合いを排除するため」に「本当になくしたくない相手(雪乃)」に告白をすることが対照となっている。それに加えて「なくしたくない、その手に掴んでおきたい」という比企谷の新たな信念も雪乃と共有できている。
雪乃は自立できたのか?
原作12巻からは、雪乃の自立というところに焦点が当たっていた。果たして雪乃は自立できたのだろうか。
その前に、果たして「自立」とは何だろうか。おそらく雪乃は第一弾のプロム開催にあたっては「誰にも頼らない」ことを自立とみなしていたように思う。少なくとも比企谷に頼ることは頑なに拒絶していた。
しかし、これは物語とは関係ない一般的な話になるが、自立とは「頼れる人を見つけること」「依存先を見つけること」「助けて欲しい時に助けて欲しいと言えること」「自己実現する能力」などという考え方もあるという。異論はあるかとは思われるが、よく考えてみれば、誰にも頼らずに誰にも依存しない人生なんて不可能だし、虚しいように思える。
そう考えれば、ダミープロム実現をすることによって、雪乃は「自分で選んだ」ダミープロムを「自己実現」し、比企谷という「頼れる人」とパートナーになることができた。充分に自立はできたと考えていいと思う。
雪乃は比企谷のどこが好きなのか?
雪乃が比企谷のどこに惹かれて好きなのか、あるいはいつから好きなのかが全く描かれていない、という批判がおそらくある。これは比企谷にも言えることで、雪乃を好きな理由や動機は描かれていない。
しかし、我々の実際の恋愛を顧みてみればどうだろう。例えば「落とし物を拾ってもらったから好きになった」とか、「この一言をかけてもらったから好きになった」とか、そういう明確に「好きになった理由」があるだろうか。殆どの場合は、なんとなく気が合ったとか、なんとなくの雰囲気に惹かれたとか、なんとなく一緒に過ごしてたらそうなってたとか、一言で語れる理由なんてないのが実情ではないか。
昔のわかりやすいメロドラマであれば、そういう「ずきゅーん!今好きになりました!」みたいな瞬間が必ず描かれていたように思われるが、現代的でリアルな恋愛物語においては「好きになった理由」は殆ど描かれないように思う(あまつさえ「好きになった理由」を明確に持つ者が敗北する物語さえ散見され、由比ヶ浜もその例に漏れない)。
例を挙げるのが適切かどうかはわからないが、私が個人的にリアルだなと思った『Just Because!』も『月がきれい』もそういう瞬間や明確な「好きな理由」はなかったし、敢えて描くのを避けていたようにさえ思う。
逆に『多田くんは恋をしない』には明確な「ずきゅーん!」があって、この物語はまず設定からしてファンタジーめいているので、リアルというよりは寓話みたいなものかなと思った(批判ではありません、面白く見させて頂きました)。
主観による余談が過ぎたかもしれない。本論に立ち戻る。従って、比企谷と雪乃の「好きな理由」みたいなものは、明確にしなくても、これまでのストーリーからなんとなく感じ取れば良いのだと思う。彼らが惹かれ合ったという結果が全てだ。
そもそも本人たち自身がよくわかっていない可能性もあるし、俺ガイルの物語はそういった「言語化」に慎重に作られている。好きな理由を説明した途端に野暮ったくなってしまう。
雪乃「あなたが好きよ。比企谷くん」
押し付けられた紙を見ると、真っ黒なカンバスの中に、白抜きでスキと書いてある。
平塚先生「どんな言葉でもどんな行動でもいいんだ。その一つ一つをドットみたいに集めて、君なりの答えを紡げばいい。キャンバスの全部を埋めて、残った空白が言葉の形をとるかもしれない」P307-308
平塚先生からのアドバイス後、比企谷は雪乃への告白シーンにおいて、核心に触れない言葉をいろいろ用いて気持ちを伝える。
雪乃「……なんで、そんなどうでもいいバカみたいな言葉はぺらぺら出てくるの。もっと他に言うことあるでしょう」
比企谷「言えねぇだろ。……こんなの、言葉になってたまるかよ」P397
比企谷がいろいろぺらぺらと語った言葉がキャンバスを黒塗りで埋めていき、そこに雪乃の「あなたが好きよ」が白抜きで残り、キャンバスは完成された。
死ぬほど可愛い
──けど、死ぬほどめんどくさいところが、死ぬほど可愛い。
P512
これまでの物語では比企谷は雪乃に対する印象として「美しい」というニュアンスで独白していた。しかし、雪乃とパートナーになってから、デレにデレるデレ谷は「可愛い」という言葉を用いる。おそらく「好き」というような意味で「可愛い」と言っているのだと思うが、なぜ可愛いなのか。
脱線するが、言葉のスペシャリストである劇作家の平田オリザ氏は著書で下記のように述べている。
ここに一つだけ、現代日本語にも、非常に汎用性の高い褒め言葉がある。
「かわいい」
これはとにかく、何にでも使える。(略)
「対等な関係における褒め言葉」という日本語の欠落を「かわいい」は、一手に引き受けて補っていると言ってもいい。『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』講談社現代新書、P116-117
そう考えれば、比企谷が(つまり著者が)ここで「可愛い」という表現を用いたのはとても秀逸だ。「かわいい」は汎用性が高く、対等で、いい意味で曖昧だ。「対等な関係」というのも雪ノ下エンドの一つの理由なのではないかと思う。
比企谷は絶対に「好き」や「愛してる」なんて言わない。それは彼にとっての空白部分だからだ。だとすれば、他にどんな言葉で表現すればいいだろうと考えた場合、「可愛い」は最も適切なように思える。比企谷はデレながらも意図して「可愛い」と地の文で言っているのだろう。
葉山、陽乃は救われたのか?
この最終巻で葉山と陽乃にも何らかの明確なハッピーエンドがもたらされると思っていたが、描かれることはなかった。下記で彼らについて考察していきたい。
陽乃について
比企谷と雪乃がダミープロムを実現させたことについて、陽乃がどう思っているのかは描かれないが、おそらく納得したのであろう。陽乃は後継ぎとして家に囚われていたが、雪乃が家を継ぐことによって自由の身になることができる。
ここから陽乃の本当の人生が始まる。「歩みを止めてしまった者」ではもういられない。家に依存はできない。「酔えない」なんて言っていられない。自分の足で歩き出さなくてはならない。代償行為でない自己実現を自分の頭で考えなければならない。
奉仕部メンバーがこの一年、考え、苦しみ、悩み、問い直し続けながら前進してきたのと同じことを陽乃は今後の人生で成し遂げ、克服しなければならない。奉仕部にもできたのだから、陽乃にもできるはずだ。
葉山について
「君が誰かを助けるのは、誰かに助けられたいと願っているからじゃないのか」
原作8巻、アニメ2期4話「君を褒めるのは、俺のためだ」
原作9巻、アニメ2期10話
上記引用の通り、葉山は以前から「比企谷に助けられたい」と願っていたことが示唆されている。比企谷には周囲の人間を変える力があると見込んでいたようだ。この結末通りの「比企谷が雪乃とパートナーになり、比企谷が雪ノ下家と関わることで責任を取る」という詳細な部分まで見越していたかどうかは不明だが、雪ノ下家との政略結婚をさせられつつあった葉山も「何も選ばない」「呪われている」から解放される。雪ノ下家において葉山のポジションには比企谷が就くであろうからである。
葉山の呪われていない人生もここから始まるし、自分で道を選ばなくてはならない。
かつて描かれた「好きな人Y」について、それが誰を指すのかは明確にならなかった。仮にそれが雪ノ下陽乃を指すのであれば、自由になった二人のこれまでとは違った新たな関係を見てみたいと思う。
ちなみに、葉山家は雪ノ下家の顧問弁護士をしていたようで、政略結婚というのがどのような意味を持つのか私は無知でよくわからないのだけれど、比企谷が雪ノ下家と密に関わるのであれば、その論理性と問題解決能力、「どうでもいいバカみたいな言葉はぺらぺら出てくる」才能を生かして、比企谷は将来、弁護士にでもなるのだろうか。
わたしたち=比企谷と由比ヶ浜両思い説を検証する
話は遡って、第6章「いつかのように、由比ヶ浜結衣は希う」で展開されている比企谷と由比ヶ浜の会話の真意は一体何なのだろう、ということを下記で検証していく。
「この子にだけは嫌われたくないから」
比企谷は由比ヶ浜について「俺は世界でただ一人、この子にだけは嫌われたくないから」(P330)と結構都合の良いことを独白しているのだが、それは比企谷が由比ヶ浜に対して「間違いを問い直すことができない存在」とみなしているのかもしれない。嫌われたら問い直せばいいのに、なぜか由比ヶ浜に対してのみそれが許されない。
それは由比ヶ浜が「正しい」からだろうか。正しさの前では、問い直すことができない。
由比ヶ浜の「お願い」は本音か?
由比ヶ浜の一番の「お願い」は「全部欲しい」であり、それは「ヒッキーとゆきのんがいるところにあたしもいたいって思う」(P338)と言った。これは本音だろうか?
由比ヶ浜はその前に「これで、ほんとにいいと思う?」(P329)と比企谷に問うた上で「ちゃんと考えて答えて。もし、本当にいいなら、本当に終わりなら。あたしのお願いちゃんと言うから。……本当に、大事なお願い」(同上)と言っている。で、比企谷は「……いいとは思ってない」(P330)と本音を伝え、雪乃と疎遠になりたくない旨を告げる。
さて、由比ヶ浜は「本当に終わりなら、お願いをちゃんと言う」と言っている。そして、比企谷は終わりにしなかった。ということは、由比ヶ浜は「お願いをちゃんと言っていない」ということにならないだろうか。つまりは「ヒッキーとゆきのんがいるところにあたしもいたいって思う」というお願いは、嘘とは言わないまでも、一番のお願いではない可能性がある。
由比ヶ浜の最後のinterludeで、いろはの「諦めないでいいのは女の子の特権です!」(P481)について「あたしの心からの声だ」(P482)と共感している。とすれば「ヒッキーとゆきのんがいるところにあたしもいたいって思う」は比企谷を諦めないという意味にも解釈できないだろうか。
「……面倒かけて、悪いな」
比企谷は由比ヶ浜に何の「面倒」をかけたのだろうか。おそらくは、比企谷が雪乃に思いを伝える後押しを由比ヶ浜にさせてしまったことについてであると思われるが、他にも解釈の余地があるようにも思える。
「……けど、お前はそれを待たなくていい」
「いつかもっとうまくやれるようになる。こんな言葉や理屈をこねくり回さなくても、ちゃんと伝えられて、ちゃんと受け止められるように、たぶんそのうちなると思う」
まとまりきらない言葉を、ゆっくり慎重に口にする。いずれ、俺が少しはマシな大人の男になれば、こんなことだって躊躇わずに言えるようになるのかもしれない。もっと別の言葉を、違う気持ちをちゃんと伝えられるようになるのかもしれない。
「……けど、お前はそれを待たなくていい」(P340-341)
由比ヶ浜の印象的な台詞に「待っててもどうしようもない人は待たない。待たないでこっちから行くの」(原作7巻、アニメ1期11話及び2期9話)がある。従って、由比ヶ浜はそもそも待っていない。それにも関わらず、比企谷はなぜ「待たなくていい」などという決め台詞を吐いたのだろうか。
考えられることは、比企谷は自らについて「待っててもどうしようもない人」への格下げを画策したのではないかということである。つまりは、ざっくばらんに言ってしまえば「俺は待っててもどうしようもない人だから、そっちから来なくていい」ということだ。
上記引用文全体の真意は何だろうか。もしかしたら「比企谷は由比ヶ浜とは”現時点で”付き合うに足りる釣り合いが取れていないと思っている」という意味に解釈できないだろうか。「もっと別の言葉を、違う気持ちを」とはおそらく由比ヶ浜へ矛先が向いている。
比企谷は由比ヶ浜を「憎からず思っている相手」(12巻P315)と表現している。三省堂大辞林第三版によれば「憎からず」とは下記の意味である。
① 愛情を感じてはいるが、それを直接表さず、いやではないと間接的に表す語。かわいい。
② 好感がもてる。感じがよい。
日本の大和言葉において「憎からず」とはおおよそ①の意味で用いられ、慕情の表現として用いられているようだ。つまりは、恋い慕っている、惹かれているということ。
比企谷の感情という重要な部分が、用例が比較的少ないと思われる②の意味の軽い感じで「憎からず」と表現されているとは思えない。とすれば、たぶん比企谷は由比ヶ浜に愛情を感じている。つまり、好きだ。
だけど、由比ヶ浜はあまりにも正しすぎ、大人すぎる。それに対して比企谷は拗らせすぎている。釣り合いが取れないし、正しい由比ヶ浜に対しては比企谷が何かを問い直すことができないし、そうであれば馴れ合いの中で関係が雲散霧消してしまうかもしれない。
比企谷が「今」すべきことは優しい由比ヶ浜との心地よい日々を過ごすことではなく、「もっとうまくやれるようになる」ように向上していくことだ。「もっとうまくやれるようになる」ためには、由比ヶ浜から自立し、雪乃と切磋琢磨していく必要がある。
改めて「わたしたち」とは何か?
わたしは、わたしたちは、初めて本当に恋をした。
P345
1.わたしたち=由比ヶ浜と雪ノ下が比企谷に恋をした
ストーリー上、最もしっくりくる解釈である。
2.わたしたち=由比ヶ浜は比企谷に、比企谷は雪ノ下に恋をした
「好きだなんて、たった一言じゃ言えない」(P345)というのは、比企谷による雪乃への感情から影響された由比ヶ浜の独白である。従って、文脈を見た場合はこの解釈が自然である。しかし、比企谷の雪乃への感情を「恋」とたった一言でカテゴライズするのはどうなんだろうとは思う。
3.わたしたち=由比ヶ浜と比企谷が両思いであった
この項で述べてきたのはこの可能性である。比企谷は由比ヶ浜を憎からず思っている(恋している)。しかし、由比ヶ浜とは「今」は釣り合いが取れないし、自分自身のために「もっとうまくやれるように」ならなくてはならないし、「今」離したくないのは雪乃に対してであった。つまり、雪乃は「恋」以上の存在であり、雪乃を選んだ。
比企谷は、だらっと居心地よく続く恋や未来よりも、離したくない「今」と、問い直して続いていく未来を選んだ、という解釈である。
──もちろん、これは穿った見方である。本当かどうかはわからない。だけど、多様な解釈ができる俺ガイルにおいて、このような説を提示しておき、「まーそうとも読めるかなー」と思ってもらうのも一興かと思い、一つのアンチテーゼとして提示しておいた。私を含めて由比ヶ浜エンドを期待していた人たちのささやかな癒やしでもになれば幸いである。
他にも考察していますのでぜひともご覧ください:
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本文で言及した関連作品:
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この記事を読んで由比ヶ浜end派だった自分は本当に心が救われました!
ありがとうございました😢
個人的にはヒッキーの「本物が欲しい」宣言以降は雪ノ下ルートかな、と思っていたのでこのラストはある意味予想通りではありました。単純に私がゆきのん推しなのでゆきのん√を期待してたのもありますが(笑)
確かに八幡は由比ヶ浜に対し好意を持っていました。逆は書くまでもないですね、ゆきのんと八幡がこじれなければ自然にクラスメイト→友人→恋人と関係が変化していた、そう思わせるほど12、13巻の八幡と由比ヶ浜の二人のシーンは暖かい空気が流れていたと思います。けど由比ヶ浜√に入っちゃうとゆきのんは間違いなく引いちゃうんですよね。そうなると八幡とゆきのんは疎遠になるか二人の嫌う馴れ合いの関係になってしまう。由比ヶ浜の性格を考えると後者の方が可能性高いと思ってました。いずれにしても雪ノ下との関係を見直す機会が無くなってしまう。この√では本物は得られないんじゃないのかと。
対して、雪ノ下に対しては恋愛感情もですが、情景や嫉妬や共感や…様々な感情を向けてきました。物語のキーとして繰り返し出された「本物」。八幡が望む本物を手に入れるためには少なくともゆきのんと八幡が互いに向ける言葉にならない感情を伝え合う必要があるわけです。であれば、ゆきのん√に入るのは必然。読む前の予想はそんな感じでしたね。
そして本巻で出た「お前の人生を歪める権利をくれ」という台詞。うーん、クサい。ですが、八幡が雪ノ下に向ける言葉としては最高だな、とニヤニヤして読んでました。自分が彼女に向ける感情が何なのか、まだはっきりと言葉にはできないけれど、彼女との関係は絶対に終わらせたくない。それは恋じゃない。愛やで八幡…(どの目線で言うのか)
互いに向ける感情をすべて吐き出した訳ではない八幡とゆきのん。本物を探すための正しい関係が始まったと言うべきですかね。ただ、完全に本物を得たわけでもない。だからこそ由比ヶ浜は二人と一緒にまた奉仕部を続けていける…うーん、消化不良感も全くないといえば嘘になりますが、綺麗なエンドだと思いました。
主さんが注目されている、本巻の「私たちは、初めて本当に恋をした」の部分ですが私は自分の解釈と特に齟齬がなかったこともあり、自然に1だと考えていました。由比ヶ浜は三人の友情と八幡への恋愛感情で板挟みになり、決めきれずに両方を欲する、という事を二人に伝えてしまいました。であれば、一番自然なのはその状況を発生させた「二人の女の子が一人の共通の友人に恋をする」という状況を改めて自分の中で言語化したのかな、というふうに感じました。
ただ、主さんの解釈も確かに矛盾は見受けられないように感じられます。著者が由比ヶ浜√をつなぐために意図的に残した、というのも考えられるかもしれません。
今回は八幡と関わったサブキャラたちも輝いていましたね。流石最終巻。全員集結させつつ上手くまとめてるな、と改めて感じました。出てないの相模んくらいじゃね?まいっか。相模んだし…()
いや、いろはすの見事な後輩っぷりったら凄かった。何だかんだ八幡との付き合いは長いし多いですからね。最後はお米ちゃんに対して先輩ぽい(?)ことまでしてましたし。成長著しいです。
平塚先生も流石でした。最後までいい先生っぷり。いろんな名言を生み出し、その度に八幡の背中を押してきた先生。今回も陽乃さんの呪縛(共依存という台詞)を見事に否定して、八幡が一歩踏み出すのを助けてくれました。八幡が唯一の恩師というのも当然です。やだ、惚れちゃう…(八幡風)
ただ個人的に葉山とその周辺に関してはもうちょっと書くことあってもいいんじゃない?とは思いました。陽乃さんがこの後どう成長するのかも気になります。短編に期待ですね。
渡航さんの作品は本作しか読んでないのでエンディングの傾向などは知らないんですし、全体に読み込みが甘い素人の感想です。いやいや、もっとちゃんと読めば違う解釈になるよ!ってことも大いに有ると思います。是非突っ込んでって下さい(笑)
そうした盛り上がりができるのもこの作品の魅力だと思います。
最後に。
私が本作に出会ったのは中学生の時でした。いつのまにか八幡たちの歳をとうに越えています。最初はぽんかん⑧神につられて何となくで読んだ作品でした。それがどんどん本作の魅力に引き込まれていきました。読み返して気付くことも多かった本作。何度ライトノベルで出すなんてもったいない!と思ったことか(笑)。私の青春の一部でもあった本作。完結は嬉しくも寂しいです。とはいえまだまだアニメ3期や短編もあるので、応援し続けますよー!
とりあえず………渡航さん、9年間お疲れ様でした!
コメント欄の一角でこんな長々とすいませんでした。
自分も途中まではこれは由比ヶ浜エンドか?と思ってましたね。
読んでいるうちにあれ?いつの間に雪ノ下ルートに・・・??って感じでした。
自分のパートナーにも「あんたは鈍感だと」よく言われるのですが(飽きられながら)
こういった話は中々難しいですよね。
違う作品ですが「とらドラ」とでも最後まで分かってませんでしたしw
何はともあれ俺ガイル完結!!寂しいですがめでたい!!
なるほど、僕も由比ヶ浜派なので面白い解釈でした。
比企谷が雪ノ下のことを好きなのはわかるんですが、由比ヶ浜のことも好きだと思うんですよね。
二人とも選ばれる資格はあったのに、雪ノ下が選ばれて由比ヶ浜は選ばれなかった、
この理由がよくわかりませんでした。
それこそ、由比ヶ浜を選んだら雪ノ下とは疎遠になるから、という理由くらいしか思いつかず、記事を読んでもあまり納得できず、なんだかモヤモヤしております。
面白い考察でした!
わたしたちは、初めて本当に恋をした。
の考察ですが、私は2の意味合いと解釈しています。
比企谷の感情は「恋」で一言で表せるものではないですが、
由比ヶ浜視点では、自分が比企谷に向けている感情と比企谷が雪ノ下に向けている(と由比ヶ浜が感じとった)感情を同じく「恋」と捉えたのかと。
前半のカラオケ、フルーツタルトの場面は同じ印象を受けました。
由比ヶ浜というキャラクターの最後の肉付けとも取れなくはないですが…なんとなく由比ヶ浜エンドへのミスリードを狙う為に前半は由比ヶ浜の周辺人物を多数登場させたのでは、と感じています。
ただ、何にせよこれだけの作品がしっかりした答えを用意し完結を迎えたことに感動、感謝です。
今後の展開にも期待してます!
八幡の「本物」を求める心というのは、単純な彼氏彼女、恋愛関係だけではないですよね…。異性にそれを求めるならそれは当然包括されている感情だとは思いますが、それ以上の”気持ち悪い”とさえ評しているものです。
読めば自明の通り八幡は非常に面倒くさいかつ繊細な心の持ち主です…。この感性を前提に読み返すと文章に示されている八幡の心を一般読者ではシンパシーを感じても実際の理解は違うんだろうなと感じました。
単なる「好き」とか「恋」という言葉でくくれない、表現したくない感情をずっと抱いていたのが雪乃、
女性らしさや優しさを強く感じ、惹かれつつ最も嫌われたくない相手である結衣。
八幡にとってより放したくない、自発的にでも人生に関わりたいのは雪乃であっということなんでしょうね
割れ蓋に綴じ蓋といいますが、個人的には雪乃を選んだことに驚きつつも納得もありました。
わたしは、わたしたちは、初めて本当に恋をした。
これは誰と誰がというよりも、(あの場面で比企谷と由比ヶ浜が同時に恋の辛さを知った」のだと解釈しました。(直前の平塚先生とのやりとりや、11巻で小町がチョコ渡す時に言ってた「自分を誤魔化さない」等から)
【比企谷】
本音を自覚し「①雪ノ下と関わり続けたい。②由比ヶ浜は待たなくていい」と由比ヶ浜に伝える事で、本当の恋(誰かを選び、同時に誰かを選ばない辛さ)を知った。
【由比ヶ浜】
比企谷に待たなくていいと言われて本当の恋(の辛さ)を知った。
なのかなと。
個人的に気になったのは、雪乃は代償行為であった父の仕事の手伝いは4月以降もやりたい事なのか、という点でした。姉や葉山がどうなるのかは、今後短編集で説明されるを楽しみにしています。
「もっと別の言葉を、もっと違う気持ちをちゃんと伝えられるようになるのかもしれない」
「でも、お前はそれを待たなくていい」
の部分の僕の解釈は、
いつかは由比ヶ浜に好意を伝えられるかもしれないが、
今は雪ノ下を引き止め、雪ノ下の人生に関わるためにパートナーでいることを選択した、
その責任のもと、由比ヶ浜は自分が好意を伝えることを待たなくていい、と取りました
由比ヶ浜の線も全然あるなぁとは思います笑
この物語
王道と言うか本来の道筋ならガハマエンドなんだと思うしそうあったほうが良いんだと思う
かわいいし尽くしてくれるタイプだし彼女としても妻としてもなんら問題ない
だからこそ雪乃エンドだけ描かずにアナザーというガハマエンドも描かれたんだと思う
誰もが納得できる結末で物語を終える為にね
けどこれはただの王道恋愛ではなかった
色々な意味で間違っているかもしれない、間違った恋愛かもしれないと八幡自身も感じつつもそれでも雪乃を選びたかった
それが本編の雪乃エンドにつながったと思う
雪乃自身も八幡への思いがありつつも選ばれるべきなのはガハマだと心のどこかで感じていたのかもしれない
つまり八幡も雪乃もガハマにわるいことをしたという罪悪感がありつつも自分たちの素直な気持ちをお互いに伝えたとそういうことなんじゃないかな
そういう意味ではアナザーは「もう一つの本編(王道であればあるべきだったエンド)」と言える存在かもしれないね
深い考察でなるほどなぁと思うところが多かったです。比企谷が由比ヶ浜に対して、「待たなくていい。」と言ったのは今までずっと由比ヶ浜は雪ノ下が、あるいは比企谷が自分の気持ちを話すのを待っていた。言い換えれば見守っていた。これに対する「待たなくていい」はちゃんと想いを伝えるから、伝えられるようになるから見守っていなくていいという由比ヶ浜からの自立でもあったのではないかと思いました。また同時に由比ヶ浜が想いを伝えられる対象でないということも示唆しているのかな、と。そうすると独白で、比企谷の姿が見えてる間は涙が流れずにやっと想いを伝えることに対する安心みたいなものがあり、姿が見えなくなると遠い存在になってしまったことを実感し、荷物は重く感じ、家では涙を流したのかなと考えました。
そしてこの物語、preludeで雪ノ下が想いを口に出した時点で、由比ヶ浜の全部欲しいというお願いは解釈にもよりますが絶対に叶うことがないというのが、由比ヶ浜にとってなんとも物悲しい話だったと思います。
渡先生がストーリーを通して言いたかったのは結局タイトルに尽きるとおもう。
このラブコメは終わりかたも含めて色々間違っている。
まともに書いていたら十中八九由比ヶ浜が勝っているストーリー。
渡先生もツイッターで「14巻のこの一冊、このシーン、この一文、そしてそのたった一言を書くために今まで書いてきた」と公言している。
間違っているとわかってはいるけど雪ノ下エンドのこの結末が僕の描く俺ガイルという事なんだろう。
雪ノ下がお情けで勝ったとまでは言わないけど端から見ると結果としては由比ヶ浜に嫁ポジションを譲ってもらったようにしか見えない終わりかたをしているしそう感じた人は少なからずいるとおもう。
なんにしても雪ノ下の勝ちではある。
でも心から喜べない気持ちはわかる。
素晴らしい考察、ありがとうございます。
結果、ゆきのんルートが王道でしたね。最後のゆきのんのデレは、予想外でしたが、それが、まあいいのかな。
3年後のいろはルートも楽しみだったりしますが、ゆきのんと恋人以上になっちゃったので、むりそうです。
タルトのシーンって、がはまちゃんがママの胸で泣くための、ガハママが娘の失恋を察するためのシーンだと思いました。
文章垂れ流しの作品が多い中、素晴らしい物語でした。
最も腑に落ちる解釈でした。この解釈を理解すると、作者の言っていた「anotherは八幡が間違わなかったルート」というもしっくりきた気がします。
ありがとうございました。
自分は雪ノ下一択でした。なんでもない掛け合いとか最高だったし、なにより「言葉で表せないほどの感情」を抱くには、平塚先生の言ったあれら全ての感情と「好き」以上の気持ちが必要ですよね。尊敬も嫉妬も共感もその他諸々エトセトラ、挙げられた感情それぞれが今までのイベントに関連付いて比企谷が感じてきたものです。たとえば嫉妬で言えば、生徒会長立候補戦だったり。これまでの感情と過保護気味な日企谷の手助け、それらを伏線として平塚先生の言葉で答え合わせもできる、雪ノ下エンドも1つの本物だと思います。正解でなくてもたとえ間違いでも、100点満点なら、それは本物なんです。
なるほど。と思えました。ありがとうございます。
まぁ、でも、ひらたく言うと、ゆきのんも八幡も、
由比ヶ浜に甘えすぎ。ですかね(笑)
あの2人、由比ヶ浜に好きな人ができたら、
めちゃくちゃ慌てて、反対しそうですし
八幡なんて落ち込んで、そんな自分に嫌悪しそうな気がします。
雪乃endを願いつつも
何故比企谷は由比ヶ浜を選ばないのかと揺れながら最終巻を読みました。
最初の思いは変わりませんが
それでも
わたしたち= 3である事を願います。
14巻は特に今という時間にフォーカスされてるなと思いました。
フルーツタルトに使われた桃は結衣の比喩で、それは旬ではないと。
八幡視点では結衣は大人の女性として描かれていて自分は子供。
2人で過ごす時間がかけがえがなくて、まるで魔法のようで、幸せであっても。
エプロンを着てキッチンに立つ結衣とららぽの展示ルームでお嫁さんと言った結衣を重ねたり。
でも所詮はどこまでも都合のいい想像でしかなくて、そのために何かをすることもできない。
最後のダンスで、どちらからともなく手を離したというのがなんとも切なかったです。
マシな大人の男になるといういつかを八幡は待たなくていいと、小町は待ってと言った。
この辺が短編で描かれることがあるのかを楽しみにしてます。
素晴らしい考察ありがとうございます。救われました。
人生全部やるっていうほど、雪乃への気持ち大きかったのに、今だけのつもりであんな重い告白するものでしょうか?
そうだとしたら、八幡は間違いなく薄ぺっらすぎる偽物そのものではないですか…?
通りすがりで失礼します。
わたしは、わたしたちは、初めて本当に恋をした。
わたしは = 由比ヶ浜(片思い)
わたしたち = 比企谷と雪ノ下(両想い)
を一言で表したのだと思います。
こんにちは。
大変興味深い考察でした。
由比ヶ浜家のお菓子作りのくだりですが、桃缶のやりとりが何か意味ありげですね。
そして、お菓子作りの最後に八幡がタルトに何を込めたのかも。単なる真心か、それとも。
また余力がありましたら、このあたりについても考察をお聞きしてみたいところです。
考察を読んだのは今回が初めてなんですが大変有意義な時間を過ごさせていただきました。
私からの気になった点は、由比ヶ浜とのタルトデートについてなんですが、anotherの方で由比ヶ浜と作者が望む書きたかった関係を書いてしまったことによる本編で由比ヶ浜ルートを作るとしたらこのくらいしかできないけど…みたいな妥協案ではないかと思いました。
また、カラオケは本編ではまだ登場していなかったが、悲しくなるようなカラオケ打ち上げ体験をした作者による遺言みたいなものではないかと思いました。
今後も何冊か俺ガイルは続いていくと思うのでその考察も楽しみにしています!
大まかな部分は納得できたけど、俺からすれば最初から結衣とくっつかないのは明らかだったからそれがわからないことについては、ラノベあんま読んでないのかなと思うわ
ほとんどずっと雪乃の為に動いてたし、逆に結衣の為に何か動いたことあったかね?って話だし。細かいところではあったと思うがね。あーしさんとの喧嘩の時とか。ただ重大な部分ではなかった。まあ結衣に重大な問題がなかったってことなんだろうけど。そもそも雪乃にある問題に対して真剣に向かっていって八幡と雪乃が成長していく物語だった。これで八幡雪乃がくっつかないってことの方が考えにくい
後そもそもメインヒロインとして登場していなかったが、メインヒロインになった回もまたない。基本は主題が雪乃+α
そして何よりanotherの存在。これは下手に内容考察するより確かだと思うが、anotherでほぼ結衣エンドみたいな話だったのに本編でもそれをやるなんて、商業上ありえない。しかも渡がanother紹介動画で、原作とは違う過程をたどり違う結果になると言ってたので確実に結衣とくっつくことだけはありえなかった。ツイッターで言ってた本編にルートの概念はないって話とも全く矛盾しない。anotherは本編ではないから。
まあこれ14巻発売前に言っても結衣信者から非難轟々だったし全然受け入れてもらえなかったけど、現実に結果を見た今ならさすがに受け入れられるでしょ
失礼します。
僕もこれが好きで見て来た、読んできたのですが僕の最後の予想はまったく違いました。
それは高2だからです。
高校卒業するにはまだ1年あるしとにかく3人で何でもして来たからどちらかを取るのは腐ったヒッキーがやるべきことではないと思っていたからです。
僕もヒッキーと同じように自己犠牲でいろいろ解決して来たたちで確かに周りからはメンドクサイヤツと言われてました。そんな自分だからヒッキーにはどっちも取らない選択をして欲しかった。卒業して疎遠になる未来を選択して欲しかったです。
14巻の終盤は全然ドキドキしなかったし普通のリア充になっちまった~。だけでした。
自己犠牲を払う人間はいつまで経っても自己犠牲で解決すると思うので本物とか偽物とか全然関係ないです。
著者は結局は普通の人なのかな~と寂しく感じて終わりました。
ただの恋愛物語は面白くないので最後が一番の腕の見せ所と思っていたのにな~。
僕が一番好きな話は修学旅行です。あのぶっ潰し感はたまらなく共感出来た。
一個人の感想でした。失礼しました。
こんにちは。
感想を読ませてもらい、あぁなるほどね!
と、思いました笑
個人的には結衣とくっついて欲しかったですがこれもこれでまたありって感じですね。
「待たなくていい」の解釈
私も読んでいて最初は上記ご考察と同じように解釈したのですが、それではあまりに違和感があったのでよく考えて見ました。
このときの八幡にとり、自身が未熟であるがゆえに旨く伝えられない言葉には、ご考察のような誰かを好きだとか付き合いたいと言うような告白の方向の言葉と
他方で、あなたとは付き合えないというような所謂「振る」方向の言葉もあるのではないかと思います。
由比ヶ浜の気持ちには答えられないが傷付けたくないと言う思いもあってそれを旨く伝える言葉を持っていないと言うことでしょう。
故に由比ヶ浜のお願いの言葉を途中で遮ってしまったのではないかと。
ご考察のような「本命は由比ヶ浜だがまだ告白できるほど自信がないから、今はほっとくと離れていってしまう雪ノ下とパートナーになっとこう」
と言う結論では八幡があまりに不誠実に感じます。
確かに作中では「パートナー」と表現されていますが、実態は明らかに恋人同士です。
事実雪ノ下は八幡に好きだと告白していますし
それを受けて八幡も後日自分も告白しなくてはならないことを覚悟しています。
八幡が、そんな気もないのに、あるいは本命が他にいるのにそんな偽物めいた言動で騙すようなことを、雪ノ下相手にすることはないでしょう。
いい考察を読ませていただきありがとうございます
誰も原作者である渡さんの意図に気づいてないようだから言うけど
俺ガイルの真の勝者はガハマなんじゃねえのってのが俺の率直な感想
ついでに言うと渡さんは雪ノ下じゃなくて由比ヶ浜推しなんじゃねえのってのが俺の感想
通常、本編ルートのキャラが勝者だわな
しかし渡さんはあなざーが間違わなかったルートと言っている
そうなると本編が正ルートでそれ以外は並行世界っつう通常の概念とは真逆になりあなざーが勝者ルートになる
まちがった道を行くことがテーマの作品だから本編はそら雪ノ下になるわな
要するに雪ノ下ルートは作品テーマに沿って形式上は本編ではあるがヒロインとして見た場合勝者ルートではないということになる
なぜそんな設定にしてるのか
なぜあなざーが出たのか
渡さんは最初から由比ヶ浜を真の勝者という前提で雪ノ下というまちがえたルートを本編にしている
なので由比ヶ浜ルートという本当の勝者ルート、あなざーを出す必要があった
これを出さないと設定が矛盾してくるからね
こう考えると本編がまちがったルートであなざーがまちがってないルートという設定になっている理由もわかる
本編が正ルートでそれ以外は並行世界っつう他作品と同じ概念で考えてる人が多すぎるきがする
だから俺は雪ノ下推しだけど嫉妬もなんもせずに素直に言う
由比ヶ浜おめでとう
あなざーこそが正ヒロインルート
おまえの勝ちだよ
由比ヶ浜EDのAnotherを作って八幡が間違わなかったEDとかほざいた時点で
わたしは雪ノ下をピエロにするつもりな渡の狙いがわかった。興醒めしたよ。
タイトルがひねてるな思ってたら内容もトリックな話だった。
ライアーゲーム再生で優勝したのは猿川だけど内容で勝った本当の優勝者は秋山みたいなもん。
本編おめでとう雪ノ下、でも、雪ノ下の負けだと。
間違った恋愛をするこの物語では本筋に選ばれたほうが敗北者なことにようやく気が付いた。大体いろはすとか八幡のことが好きなキャラはまだいたのに由比ヶ浜だけAnotherが出たのもおかしいと思った。
雪ノ下をピエロにして由比ヶ浜のヒロイン力を見せつけたかったのかね。
「待たなくていい」のところは「ちゃんと受け止められるように」が重要で、由比ヶ浜のセリフを遮って告白させなかったことにあると思う。
「待たなくていい」は「告白しなくていい」であり、八幡はいつかはちゃんと告白を受けた上でうまく気持ちを言葉にして振れるようになるかもしれないってことを言ってるんじゃないだろうか。
興味深い考察ありがとうございました。
「カラオケ」と「フルーツタルト」の2件ですが、私はここには意味があると思います。
まずカラオケですが、これはこの1年間のある種の総決算ではないでしょうか。奉仕部という環境で過ごした結果として、繋がりができた。それは決して仲良しこよしではありません。物語当初の八幡のように言うなら、青春を謳歌しているとのたまう嘘つきたちと、その影に隠れるものたち。けれどここまでの経験から八幡は三浦の優しさ(局所的だが)や海老名さん(修学旅行編等)の一面、戸部(戸部はまさしく八幡の厭う典型であった故に、少なからず肯定的な理解を示すだけでも変化かと)や戸塚やオタクsについてなど多くを知りました。関わらないカーストの最上位と最下位であっても、ひとつの部屋に集まればそれなりに上手くやれる。こういった描写は奉仕部での活動を経た八幡の「正しい(ひねくれていない)」未来(上手な人付き合い等)を暗示していると思われます。
故にその未来を選べない(関係を保つ自信が無い保とうと思えない)八幡の「間違った」生き方が強調されているのだと思います。
フルーツタルトについては「正しい」選択の先の未来の暗示でしょう。
というのは、最終巻では中盤まで常に「(由比ヶ浜との)未来を考えてしまう」という旨の描写がされていました。そしてそれはありえない、とも。
表面上物語は「論理的な正しさとして由比ヶ浜のお願いを叶える」ことから「気持ちに正直に理屈が通っていなくても行動する」ことへと向かっています。まさにラブコメ。
しかし、別の面から見ればこれは「この1年で人間関係に少なからず適合しだした八幡の普通で正しい未来」から「それでも自分や他人の心への欺瞞が、誤魔化しが、空気を読むことが許容できない八幡のエゴ」に向かっているとも読めないでしょうか。
俺ガイルにおいて、自分に嘘をつかずまっすぐに生きることは決して是としては描かれていません。その生き方は酷く窮屈で押し通せ得ないことの方が多い(そして通しきれないのならエゴでしかない)まちがった生き方です。(ただし、これらと真剣に向き合い足掻きもがく彼らの様子が平塚先生にとっては前進であり意味あるもので、はるのさんにとっては薄ら寒い許容できないものなのでしょう)
故に、最終巻前半で描写されたのは「待ち受ける正しい近しい未来(=由比ヶ浜と付き合う、雪ノ下とも馴れ合いの関係が続く)」と「さらにその先の未来(由比ヶ浜との未来)」であり、対する八幡の結論こそがそれを許容できないというものだったのではないでしょうか。
以上長く拙い考察でしたが、これらの理由ゆえに「カラオケ」と「フルーツタルト」のくだりは必須だったと思われます。
素晴らしい考察……なるほど、由比ヶ浜を選んだ場合の未来を暗に示していた……
全てピッタリ符合しますね。何故気づけなかったんだろう……
問い続けることができるか否か。
確かに「由比ヶ浜との恋愛」は「正しい」のだと思います。
でもその「正しさ」の立脚点がどこにあるかの考察も必要だったのじゃないかなと。
受け手の、読者の立脚点もがどこにあるかで、解(由比ヶ浜派、雪ノ下派)も変わってくると思います。
【追伸】
蛇足ですが一番の間違いは、比企谷の誕生が10年遅かった点じゃないでしょうか?
考察・感想興味深く読ませていただきました。
読んでいてもやもやした部分を明確に言語化していただいたようで、清々しい気分です。
考察の足しになればと思い、私見を述べさせていただきます。
「待っててもどうしようもない人は待たない。待たないでこっちから行くの」
という台詞がどういう意味かを理解しているから八幡の側からは「待たせている」という感覚をを持ったのかなと思っています。なので、意識的にその関係を終わらせるために「それを待たなくていい」という発言をして由比ヶ浜を選ばないという宣言にしたのではないでしょうか。
雪ノ下の自立に関してですが、「パートナー」を決める事が自立そのものであった、というのはいかがでしょうか。雪ノ下は相手と一生添い遂げる(かはわからないが多分そう)といういかにも初恋に抱くような感覚を持っていて、経済的にも精神的にも自立していない自分がそんなことをして良いのかというか、自身は自分の所有物ではないのだから勝手なことをしてはいけないと思い込んでいる、とかですかね。これに関してはその根拠があったわけではなく僕がそう思っていたから勝手にそう読んだだけですが。
楽しく考察を読ませて頂きました。
ただ、八幡にかなり厳しいなと感じました^^
特に「憎からず」と「待たなくていい」の解釈。
(12巻の話ですが)「憎からず」のシーンは、結衣とのキッチンがリアリティがあるように見えて、(八幡にとって)作り物、紛い物であること(=受け入れがたい)を強調したいシーンだと思いました。
本命の女の子を「憎からず」と表現することはあまりないのかな、と思います。
本命じゃないけど、それなりに好感を持っているという意味だろうな、と解釈しました。
フルーツタルトを持ち帰らなかったのも同じ意味だと思います。
「待たなくていい」は文字通りかな。半端な事をしない(=三浦に言われた)というだけの意味かな。
「酔えない」は、『自分を曝け出せない』、『本音で振る舞えない』みたいな意味に捉えました。
外面がモビルスーツと言う点では、陽乃と八幡は同じかもしれません。(社交的と自意識過剰ぼっちの違いはありますが)
話ずれますが、14巻の表紙はアニメ1期11話Aパートの最後のシーンですかね。
1巻から14巻まで徹頭徹尾、ねじくれた似たもの同士である雪乃と八幡が
恋だ愛だだけで括れないシンパシーや尊敬等の様々な感情を抱え、最後は結ばれるという話なのに
由比ヶ浜エンドになると思ってた人が存外多くてびっくりです。
なかなか面白い考察だと思いますが、比企谷は最初から雪ノ下が好きで、他の人も書いてますが、この作品は最初から最後まで比企谷が雪ノ下の気を引くためにあれやこれやする話で、たまたま比企谷が奉仕部に入部したから、二人が結ばれただけで、仮に入部しなかったら、比企谷の片思いで終わっただけでしょう。
確かに由比ヶ浜のほうがヒロインとしては可愛いと思いますが、同級生でありながら、まるで眼中になかったわけですから、比企谷にとって彼女はいいお友達以上の関係にはならなかったのは必然でしょう。
結局のところ「とくに理由がなくても人は人を好きになることはあっても、理由がいろいろあっても必ずしも人は人を好きになることはない」ということじゃないですか。
まあ人気的には由比ヶ浜のほうがあったから、anotherを書いたのでしょうが、これも他の人が書いてますが、たとえ作者といえ、本編のメインヒロインになった雪ノ下に失礼な扱いだと思いましたね。もし書くなら、本編終了後にすべきでした。
俺ガイルの3巻だと八幡はガハマとすれ違っても自分から動こうとはしなかったですよね
けどゆきのんの時は成長したからか自分から行動してました
この子にだけは嫌われたくないはガハマに嫌われたらゆきのんとの接点がなくなる
ゆきのんに対しては最後に見返りなしでも責任をとると言ってる
のかなと
また.5巻でゆきのんにピンク ガハマには青のシュシュを渡していたので、この時にはもうゆきのんに恋愛感情があったと思います
最終巻でサキサキの出番が少なかったのでそれだけが心残りでしたね
ふとしたきっかけから俺ガイルのアニメを視聴、理解不十分な点をこちらのサイト様の考察で理解を深め、続きが楽しみで仕方なくなり12~14巻を一気読みしました。
私のような普段はアニメもライトノベルにもふれる機会はない、かついい年齢の者でも「俺ガイル」をこれほど楽しめたのは、こちらのサイト様の力がありました。
どちらかといえば敬遠していたジャンルだったのですが、この作品を読んだ現在、俺ガイルには「文学」すら感じているところです。
作品はもちろんの事、そんな気持ちにさせてくれたこの素晴らしい考察を書かれた管理人様に、まずは感謝申し上げます。
ありがとうございます。
そんな私ですが、アニメ2期を見終えた後は、雪ノ下エンドは間違いないだろうと思っていましたが、12巻から原作を読み進めるうちに、サイト管理者様同様、由比ヶ浜エンドを切に願いました。多分そうならないだろうという予測ができてしまうからこそ、とても切ない気持ちになりながら。
この作品は敢えてわかりづらい表現を用い、捉え方を読者に任せている傾向が強い作品だと思います。
それ故、どれだけ考察しても答えは決められないところがあると思っています。
それを踏まえた上で、フルーツタルトに関して私が思ったのは、フルーツタルトは「案外簡単に作れるもの」として作中では扱われたデザートでした。つまり「簡単に手に入ってしまう」という比企谷の望まないものへのメタファーだったのではないでしょうか。
それに対して、雪ノ下に対する「死ぬほどめんどくさいところが、死ぬほど可愛い」というところ、これが比企谷の思考形式であり、比企谷の選択する結論となる考え方なのかなと思えております。
このタルトのシーンは由比ヶ浜との一般的な幸せな将来を思わせる未来予想図であり、それを読者も楽しめる素敵で幸せな時間ですが、ひねくれ比企谷はそれを望まない、というメタファーだったのかもしれません。
しかし最後にタルトを由比ヶ浜に渡す時に比企谷が「込めたもの」は何だったのか。それに対する答えの記載はありません。
私にはそれが「今は伝えられない、由比ヶ浜への恋心」であってほしいと、勝手に願っています。
由比ヶ浜エンドを望んでいた私の偏見ではありますが、雪ノ下への告白も、ビジネスパートナー的な相方になってほしいというように、私には読み取れていました。
雪ノ下は比企谷を好きだったのだと思いますが、比企谷は恋人ではなくそのようなパートナーとして感じていたのではないかと。
そして、恋愛の対象としては由比ヶ浜に告白!という展開を願ってしまう自分が、作品を読んでいる時にいました。
でも、この俺ガイルという作品は「まちがっている」話であることを考えれば、簡単に正解が手に入る由比ヶ浜との幸せではなく、比企谷と同じく正解を模索し続け苦悩する雪ノ下をパートナーとして選ぶという、一般的な人が求めるものとはちょっと違う答えになるのかもなと、読後の現在は思っていると共に、それでもそれでも由比ヶ浜とのハッピーエンドが見たかった!!ぐぬぬぬぬ!となりながら、半分納得、半分残念な気持ちでおりますw
しかし、この最終巻である14巻のラストは由比ヶ浜エンドを望んだ人への救いであると感じています。
恋人同士という明確な表現は現在の比企谷と雪ノ下の間にはない、つまりは由比ヶ浜との未来も今後は考えられるかもね、という読者への投げかけで終わっているように感じました。
その答えはありませんし、アナザーストーリーで由比ヶ浜エンドを描いてる(らしい)以上、このストーリーではそうではないのかもしれませんが。それはわかりません。
細かい話をしだしたら様々な解釈があると思います。でも、この話の根底には一つこんなことがあるのだろうと私は感じています
「がむしゃらになれ」
理論、理屈(屁理屈)、あきらめ、無気力、などなどいろいろな言葉はあると思いますが、多感な思春期に感じる、世の中(自分の周りの世界)への抵抗、それを冷めた態度を演じてなぁなぁにして流すのではなく、向き合っていくことの大事さを発見し、だからこそ苦悩し、一生懸命に毎日を過ごさないといけない事に気づいていくという、青春群像劇。
答えなんかわからない、むしろ答えなんかないのではと、何が正解かわからないからこそ無我夢中で動ける、そんな若者の悩ましくもありながら必死に行動する姿。
だからこそ、正解を与えてくれてしまう由比ヶ浜は比企谷にはパートナーとしては選ばれない、という締めに至ってしまいそうですが、それでも前述の通り、私は由比ヶ浜と比企谷のラブラブな姿が見たかったんですよね!一途に比企谷を想ってきた由比ヶ浜が選ばれないのはどうしても切なすぎて!w
最後にもう一度。
サイト管理者様、こちらのサイトのおかげで俺ガイルが最高に楽しめました!ありがとうございました!
長文失礼いたしました。
アニメの方ではまだわかりようのない鍵について
13巻関係を終わりにしましょうの後の最後のinterludeの内容や
最終巻で思い通じ合った後すぐに
「もう一度その扉は開かれる」
となっているので雪乃の八幡に対する恋心の鍵ではないかと思います。
アニメ3話冒頭では平塚先生が奉仕部の鍵を持っていた
ということは平塚先生がすでに雪乃の八幡に対する恋心を本人から聞いているってことを暗に示しているのかも
八幡と雪乃両方の気持ちしってるからこそ八幡に、共依存などではないとアドバイスできた。
2020-07-27
いつも大変鋭く楽しい考察をありがとうございます。
わたしたち=由比ヶ浜は比企谷に、比企谷は雪ノ下に恋をした だと私は思いました。
公園での出来事の直後のことなので、彼女は由比ヶ浜自身のそれのことと、比企谷のほうのそれについて言っているという流れが自然だと思うのです。
また、両想いなら帰宅後に泣きませんし、三角関係の図式は「常に正しい由比ヶ浜」の見立てや直感が一番信頼性があります。なので、自分が今好きな人が、今誰を好きなのかを重ねて感じとっているという場面だろうと思います。
由比ヶ浜がそれを「恋」とカテゴライズしたのは単に彼女が感情の人だからだと思います。比企谷にとっては由比ヶ浜に思う感情は「大切で幸福な日々」ではあったにしろ…今関わるのを諦めたくないのは雪ノ下です。
確かに比企谷自身は意識や理屈の上では「恋慕」という事象自体に価値を持たせていませんが、彼以外の人間から見たら彼のこれまでの行動原理には、恋が全く混じってないようには見えないと思うのです。実際に彼も最後の告白シーンで雪ノ下にそういった感情が間違いなく含まれているのを自覚していました。なので「比企谷は雪ノ下に恋をした(由比ヶ浜談)」であると思います。
ただこの作品、結末として個人的にはひとつ解せないことがありました。
これはアニメの話になってしまうのですが三者とも回想シーンがそれぞれありました。各人にとって大切だと思う過去の場面です。比企谷については続8話での本物が欲しいと吐露する際に、彼は「3人が強烈に踏み込み合った場面」を多く回想しています。
これからすると恋よりも大事なこと…つまり平塚先生の助言のようないくつかの事であるとか、または(馴れ合いかどうかは別としても)奉仕部内の信頼関係や大切な居場所(三人のこと)のようなものに関心があるように見えてたのですけれどね。
それなのに彼がなぜ、相手の人生にまで踏み込む…と発言するくらいの恋愛的な流れになっていったのかイマイチわかりませんでした。まあ…雪ノ下には第1話で会ってすぐから関心を持っていた…といえばそれは本当に確かにそうであり、身も蓋もないのですが。
作品後の…これから先に彼らの中では「修学旅行での葉山たち」とは違った試練や問い直し、あるいは結束などがあり得るのかもしれませんが、実際問題「おれたたエンド」のように終わった感じがしました。
もともと作者さんがゆきのん的な同級生に憧れてた気持で1巻始めてたという話があったような。
いやそういうメタ読みはおいても……
結衣は完成された人格でだいたい誰と結びついても上手く行って幸せになれるけど(失礼)、
雪乃はそうではなくて、辛辣な知性と攻撃力を受け流せる男でないと上手くいかないです。
(陽乃もですけど)
もともと八幡は、序盤で雪乃の偽物は嫌いというまっすぐさと不器用さと孤立に共感してましたが、
加えて儚さと健気さが八幡の心を捉えて離さなかったのでは……
あと雪ノ下一家のめんどくささに飛び込んでヒリツイた人生を送りたいというか、
ガハママが健全でいい人過ぎて、八幡じゃなくても全然良くて、だからピンとこなくて駄目だったんでは。
ガハママが毒親だったら結衣にもワンチャンあったかも。(←ヒドイ)
そういう意味では、結衣の人間としての強さが恋愛では弱さになる、雪乃の弱さが強さになるパラドックスが面白いかも(←メンヘラ好き)。
男女は割れ鍋に綴じ蓋でちょうどいいのかもね。
でも、守りたい女のコを好きになるって、現代の進んだジェンダー観には合わない昭和の心性ですかね……
まあ個人の好みはしゃーない。
この物語は「やはり俺の青春ラブコメは間違っている」です。比企谷は間違い続けるから比企谷なのです。anotherの「間違わなかったルート」は、この物語ではない、と作者は言っているのではないですか。つまり夢物語のサービスということです。
雪ノ下も比企谷も相手に認められたくて、もがいている話に、なぜ、由比ガ浜エンドがあり得るのでしょうか。
由比ガ浜は、雪ノ下と比企谷を結びつけるだけの存在であって、比企谷が本物を得る決心を得た瞬間に不要になる存在です。だから、終わりの始まりだし、由比ガ浜は本物なんていらないと言っているのだと思います。
八幡が誰と付き合うかは、この作品の本質ではない。
奉仕部=サナトリウム(療養所)にいる八幡と雪乃の問題を解決することが、この作品の最大のテーマである。
八幡と雪乃の問題を「親子の問題。親の愛情を受けず育ち、社会性を失った子供」と定義すると雪乃ルートでは、雪ノ下家の親子関係は、改善した。しかし、八幡の性格的な問題は改善したが、親子関係は全く触れらずに終わった(原作は未読)。
特に、最終話の雪乃の「スキ」の告白に対して、代償を考える八幡に不完全なものを感じた。
奉仕部の意味が、愛情(特に親子愛)を取り戻す。または、無償、対価の必要ない行為、そういった人間関係の構築を目的とするなら、今作品での八幡は、未完だと言える。
最終話で、小町(比企谷家の問題)が入部して奉仕部が存続するのが暗示しているように思える。
親子、人間関係そのものがテーマなら、青春ラブコメと言う恋愛だけの狭義な定義では、間違っていると言えよう。