『俺ガイル。続』第8話の感想・考察その1。「今だよ、今なんだ」の真意とは?

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第8話「それでも、比企谷八幡は。」前半部

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続』(『俺ガイル。続』、二期)第8話は原作のわずか約50頁分がほぼ完全な形で映像化されており、この物語における最重要な展開であることは疑う余地はない(比較すると、第6話、第7話は原作の約100頁分)。

長くなるので前半(その1)と後半(その2)とにわけ、過去回や原作を援用しながら解説して行こう。

※他にも俺ガイル考察記事ございますので、「俺ガイルカテゴリ」からご覧くださいませ。

 

平塚先生のアドバイスの真意は?

この第8話は前半と後半に明確にわけられる。前半はストーリーの指針とも言える平塚先生との会話。後半はそれを受けての比企谷の行動である。で、この前半部分、控えめに言って至言だらけである。人生で行き詰まった時にここに戻って来たいと思わせるほどの説得力がある。

時系列順に解説して行こう。

 

「けれど、感情は理解していない」

平塚先生「君は人の心理を読み取ることには長けているけれど、感情は理解していない」

平塚先生は比企谷に「君は人の心理を読み取ることには長けているけれど、感情は理解していない」と言う。で、その感情、あるいは心が問題を解決することになるとアドバイスする。

比企谷が現在抱える問題は2つ。ひとつは一色いろはに頼まれているクリスマス合同イベントの停滞、もうひとつは奉仕部の停滞である。

 
クリスマス合同イベントについて比企谷は「玉縄も一色も自分のせいで失敗するのが怖い故、責任を分散させるために他人の意見を取り入れた結果が、この停滞した現状。誰が責任を取るのかをはっきり決めなかったのがそもそもの間違いだった」と分析する。これは生徒会長選挙の時に比企谷が小町の意見を取り入れて解決しようとしたことと重なっている。

それを受けて平塚先生は「比企谷が現在抱える2つの問題の本質は一つ、心だ」と言う。これは第2話での由比ヶ浜の台詞「人の気持ち、もっと考えてよ」とも関連する。由比ヶ浜にそう言われたのに、いまだに比企谷は高い自意識のために感情、心、気持ちを理解できずにいる。

 
なぜ比企谷に高い自意識が構築されたかというと、中学時代に告白が失敗したことに起因している。その反動で「優しくされたから好きになってしまう」のような安直な勘違いには何の意味もないと思い込むようになってしまった。余談だが、かなり頭のいい比企谷だけれど行動原理は結構幼稚なところに起因していることがわかる。

 

「残った答え、それが人の気持ち」

平塚先生「感情が計算できるならとっくに電脳化されている。……計算できずに残った答え、それが人の気持ちというものだよ」

この先比企谷が人の気持ちを理解できるようになるかどうかはわからない。少なくとも、今はまだ理解できる兆しがない。そこで平塚先生は「計算しかできないなら、計算しつくせ。全部の答えを出して、消去法で一つずつ潰せ。残ったものが君の答えだ。感情が計算できるならとっくに電脳化されている。……計算できずに残った答え、それが人の気持ちというものだよ」と言う。

人の気持ちがよくわからないという人がいる。これを書いている私もそのような傾向があると自認している。これはそんな人のための明快なアドバイスにもなっている。ありがとうございます。

 

「あの様子を見て、もしかしたらと思った。それは君も同じか?」

もしかしたら雪ノ下雪乃は本心では生徒会長になりたかったのではないか、ということをここでは言っている。雪ノ下の本心は結局どうだったのかということは作中で語られることはない。

 

「誰かを大切に思うということは、その人を傷つける覚悟をすることだよ」

平塚先生「誰かを大切に思うということは、その人を傷つける覚悟をすることだよ」

はい出ました、珠玉の名言。

往々にして私たちは、例えば愛を誓う際には「もう君を泣かせたりしないよ」などという理想的でパーフェクトな言葉を紡ぐ。しかし、この物語においては「傷つけないなんてことはできない。だから、誰かを大切に思うということは、その人を傷つける覚悟をすることだ」と逆説的に述べられている。

 
こういった逆説的な言葉が私たちの心に響くのは、「もう君を泣かせたりしない」と言葉で言うことは容易くてもそれが実際には不可能であることを知っているからに他ならない。むしろ、「泣かせたりしない」という態度はコミュニケーション不全を誘発する恐れもある。傷つけない世界はファンタジーに過ぎない。

「誰かを大切に思うということは、その人を傷つける覚悟をすることだよ」という言葉には、この物語がただ甘美なだけな理想を頑なに拒絶すると共に、強力な反骨精神の元に築き上げられていることを端的且つ明確に示している。だからこそ圧倒的なリアリティがある。

 

「今だよ、比企谷。今なんだ」

平塚先生「多分、君でなくても本当はいいんだ。この先いつか、雪ノ下自身が変わるかもしれない。いつか彼女のことを理解できる人が現れるかもしれない。彼女のもとへ踏み込んでいく人がいるかもしれない。それは、由比ヶ浜にも言えることだ。

君たちにとっては、今この時間がすべてのように感じるだろう。だが、けしてそんなことはない。どこかで帳尻は合わせられる。世界はそういうふうに出来ている。

……ただ、私はそれが君だったらいいと思う。君と由比ヶ浜が雪ノ下に踏み込んでくれることを願っている。

この時間がすべてじゃない。……でも、今しかできないこと、ここにしかないものもある。今だよ、比企谷。……今なんだ」

「君でなくても本当はいいんだ」

主人公に対して「君でなくても本当はいいんだ」という言葉がかけられる物語がいまだかつてあっただろうか。もしかしたらあったのかもしれないが、稀有であることは確かだ。これは例えばスーパーマンに対して「君が世界を救わなくても本当はいいんだ。いつか世界を救う人が現れるかもしれない。だけど世界を救うのは君だったらいいなって思う」と言っているようなものだ。

「君でなくても本当はいい」はネガティブな言葉ではない。つまりは、比企谷の存在を否定する言葉ではなく、「今」を肯定する言葉である。

「それは由比ヶ浜にも言えることだ」

平塚先生「この先いつか、雪ノ下自身が変わるかもしれない。いつか彼女のことを理解できる人が現れるかもしれない。彼女のもとへ踏み込んでいく人がいるかもしれない。それは由比ヶ浜にも言えることだ」
比企谷「いつか、ですか」

平塚先生から由比ヶ浜の名前が出たとき、比企谷はハッとした表情になり「いつか、ですか」とひとりごちる。比企谷は高い自意識のために由比ヶ浜から発せられる好意みたいなものを額面通りに受け取らないように振る舞っている。しかし、ここでは比企谷が由比ヶ浜のもとへ踏み込みたい願望を持ちながら、いまだできずにいることを表しているように思える。

私は由比ヶ浜エンドは結構有力だと思っているが、その証左が表れているシーンであると思った。

「今だよ、今なんだ」

「今」に関する物語の時系列を整理しよう。

ぼっちである比企谷は物語の初め(アニメ一期、原作1巻)で青春なんて嘘と欺瞞の集積でしかないと吐いていた。そして、雪ノ下雪乃と共に「馴れ合いなんて要らない」という信念を共有していた。

「馴れ合いなんて要らない」とは「いつか壊れてしまうものは、それまでのものでしかない」ということであり、馴れ合いや取り繕いで敢えて磨かなくてもそこに存在し続ける人間関係のことである。その信念は言い換えれば「永遠」という概念に近い。

 
しかし比企谷は、修学旅行で葉山たちグループの「なくしたものは戻らない」「今を大事にしたい」という思いに共感してしまい、信念に背いてまで彼らの関係を欺瞞的なやり方で現状維持させる。奉仕部を大事に思い始めている比企谷自身と彼らの姿が少なからず重なったからだ。しかし、そのせいで信念を堅牢に保つ雪ノ下雪乃とは対立するようになってしまう。

生徒会長選挙では奉仕部という「今」を存続させるために、雪ノ下雪乃の立候補を阻止する。そのために奉仕部の停滞という新たな問題が発生し、今に至る。そしてここで平塚先生から「この時間がすべてじゃないけれど、今しかできないことだってある。今なんだ」という言葉を貰うという流れになっている。

 
この「今なんだ」は、修学旅行から今まで比企谷がやってきたことを肯定する救いの言葉であると共に、比企谷が上手く理論立てて言語化できなかった答えへのヒントを一言で表すものとなっている。

 

「君と由比ヶ浜が雪ノ下に踏み込んでくれることを願っている」

物語のテーマが示されている。奉仕部という場所は雪ノ下雪乃の成長のために存在するということであり、比企谷と由比ヶ浜はそのサポート役であるということである。

物語中で雪ノ下雪乃は強固な信念を持ち、決して間違えないキャラクターとして描かれているように見えるけれど、そのテーマに基づけば雪ノ下雪乃は常に間違っていると言える。比企谷はかつて雪ノ下と同じ信念を持っていたので間違っていたが、「今」という概念を手に入れたことで、作品の行き着くテーマに少しずつ歩み寄りつつあるとも言える。由比ヶ浜はおそらく最初から最後まで作品のテーマ上は殆ど間違えていない。

この物語、明確な答えや正しさみたいなものを一方的に押し付けてくる結末になるとは思えないけれど、それでもそれぞれのキャラクターがそれぞれどのような答えを手にするのかが見どころである。

 

「そうでなくては、本物じゃない」

平塚先生「考えてもがき苦しみ、あがいて悩め。――そうでなくては、本物じゃない」

本物というフレーズが出てくるのは、これで3回目である。一度目は一期の林間学校、二度目は第4話での陽乃との電話(比企谷「勘違いしていたというか、一方的に願望を押し付けていただけで、それを本物とは呼ばない」)。

つまり、現時点で本物とは「”勘違い”ではなく、”願望の押しつけ”でもないもの」と定義することができ、その本物を手にするためには「考えてもがき苦しみ、あがいて悩まなくては手にすることができない」ものということである。比企谷にとっての「本物」については他記事で考察していく。

 

「苦しんだから本物ってわけでもないでしょう」

比企谷「けど、苦しんだから本物ってわけでもないでしょう」

比企谷のこの台詞は平塚先生のアドバイスを否定しているのではなく、「礼代わりの憎まれ口」であると原作で明言されている。なので、特に深い意味があるわけではないようだ。

 

比企谷が手にした答えとは?

ずっと考えて、なのに手段も戦略も策謀も何も思いつかない。どんな論理も理論も理屈も屁理屈も考えつきやしない。
――だから、たぶん。これが俺の答えなんだろう。

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』第9巻、P242

平塚先生からのヒントを元に比企谷は考える。要点を下記にまとめる。

・比企谷は生徒会長選挙の時に自分が間違えたのだと気づく
・なぜ間違えたのか? 小町に理由を与えてもらって動き出したからである。誰かに容易く与えられるものは本物ではない。
・だから、今回は理由を与えてもらうのではなく、自分の理由で動かなければならない。
・では改めて、なぜ比企谷は雪ノ下雪乃と由比ヶ浜を生徒会長にさせないために策を講じたのか

 
結論「欲しいものがあったから」

 

たぶん、昔からそれだけが欲しくてそれ以外はいらなくて、それ以外のものを憎んですらいた。だけど一向に手に入らないから、そんなものは存在しないとそう思っていた。
なのに、見えた気がしてしまったから。触れた気がしてしまったから。
だから、俺はまちがえた。
問いはできた。なら、考えよう。俺の答えを。

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』第9巻、P242

比企谷には「欲しいもの」があった。だけど、そんなものは存在しないと思い込むために高い自意識を構築した。しかし、奉仕部として過ごす日々の中でその「欲しいもの」に触れてしまった気がした。

その「欲しいもの」を手に入れるために、あるいは、取り戻すためにどうすればいいか、比企谷は考える。計算し尽くす。しかし答えは出てこなかった。つまり、それが答えであり、比企谷の「感情」だ。

この第8話の後半、比企谷はその答えを携えて部室のドアを叩く。

 
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