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俺ガイル完第12話(3期最終話)の感想・考察その2。「あなたが好きよ。比企谷くん」

俺ガイル完第12話(3期最終話)の感想・考察その2。その1の続きから最後までが範囲です。なんやかんやで1万字を超える長文です。全身全霊を込めて書いたつもりなので是非とも最後までご覧くださいませ。

 
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雪ノ下母と陽乃

雪ノ下母「一度忠告した手前、私はあなたの味方をする気はありません」
雪ノ下「問題ないわ。責任を取るのが責任者の仕事だもの」

 ※

雪ノ下母「比企谷くん。ご迷惑おかけするけど、よろしくね」
比企谷「え、あ、まぁ、はい。仕事なんで」

 ※

陽乃「覚悟決めてね」

雪ノ下母は「母親として」は合同プロムには反対だと11話で言っていた。雪ノ下はその反対を押し切って実現させようとしている。だから、この合同プロムの完遂は、雪ノ下における親からの自立と同義だ。

比企谷も11話で言っていたように、成功するか失敗するかは関係がない(材木座が「失敗していいまである」と比企谷の台詞を代読していた)。この最終話でもプロムが成功したのかどうかには焦点が当てられていない。雪ノ下がこの仕事を最後まで責任を持って取り組むことだけが重要な点だ。

作中で雪ノ下母が無垢で柔和な笑みを向ける対象は比企谷くらいである。8話でも比企谷の「プロムの際には踊ってご覧に入れますよ」で破顔している。相当気に入られているようである。比企谷の「仕事なんで」は理屈である。

陽乃の「覚悟決めてね」は、おそらく11話で比企谷が言った「その辺の責任も取るつもり」あたりの事象に向けて放たれており、プロムとは関係がないように思える。ただ、比企谷の覚悟がもう決まっていることは誰が見ても明らかであるので、「頑張ってね」という意味の言葉を陽乃流に翻訳したものだろう。

由比ヶ浜との会話

由比ヶ浜はなぜ比企谷の元に来たのか

由比ヶ浜「いろはちゃんがバックルームで死んでた」

由比ヶ浜は「いろはちゃんがバックルームで死んでた」と言うが、後にいろはと小町が由比ヶ浜を後方から見守っている映像が提示されるので、その言葉は嘘である。由比ヶ浜はいろはと小町に背中を押されて、こうして比企谷の元に駆け寄って会話をしているのは確実と思われる。

由比ヶ浜「こういうの、あたしたちっぽい」

比企谷「悪い、頼む。今、材木座たちがダッシュで買い行ってるけど、それまで凌ぐために全力で量を誤魔化してんだよ」
由比ヶ浜「そっか笑」
比企谷「今笑うところだった?」
由比ヶ浜「うん……。なんかこういうの、あたしたちっぽい」

まず、「あたしたち」とは何だろうか。2つ考えられ、ひとつは「比企谷と由比ヶ浜」、もうひとつは「奉仕部の3人(いろはを入れて4人でもいい)」である。

由比ヶ浜の「こういうの、あたしたちっぽい」が指す対象(こういうの)は何だろうか。

ひとつは、こうやってバタバタしながら過ごす時間のことだろうか。奉仕部としていろいろなことがありながらも彼らは楽しい時間・空間を過ごした。それらを振り返って、この合同プロムはその集大成として、やっぱり楽しいということを再確認して、由比ヶ浜は笑ったというのが最有力である。

もうひとつは、「全力で量を誤魔化してる」に着目できるだろうか。比企谷は常に誤魔化している。要所である11話の雪ノ下への告白めいた感動的なシーンでさえ、放たれる台詞は全て理論武装した誤魔化しである。由比ヶ浜はそんな比企谷のことを全てわかっていて、面倒事を押し付けられてきた。だから、それが「あたしたち(比企谷と由比ヶ浜)らしい」ということである。

ちなみに、由比ヶ浜はアニメ3期においてなぜか「ヒッキーらしい」「あたしたちらしい」と発話する頻度が多い(「ヒッキーらしい」(「ヒッキーっぽい」だったか?)がどこだったか忘れてしまった。原作の中だったかもしれない)。比企谷の言うところの「本物」は「理想を押し付けない」ことであるが、「〜らしい」と決めつけることは「理想を押し付ける」ことと同義である。由比ヶ浜は「本物なんて欲しくなかった」ので、それへのアンチテーゼとして「〜らしい」と発話しているのかもしれないが、深読みしすぎ感はある。

由比ヶ浜は何を言おうとしたのか?

由比ヶ浜「ねぇ……」

由比ヶ浜が何かを言いかけてやめる。「ねぇ」の続きは何を言おうとしていたのだろうか。原作によれば、由比ヶ浜の「頑張って」は比企谷に聞こえているので、少なくとも「頑張って」を言いかけたのではない。

ヒントも何もないので非常に難しい。難しい理由は、どんな言葉でも当てはまりそうなので正解らしきものが特定できそうにないからである。それっぽいものを下記に列挙してみよう。

・ねぇ、ゆきのんのこと大切にしてね。
・ねぇ、プロムが終わってもたまに話そうね。
・ねぇ、部活なくなるのやっぱり嫌だな。
・ねぇ、ヒッキーのお願いは叶ったのかな?
・ねぇ、あたしのお願い叶えてくれてありがとう。
・ねぇ、あたしは諦めないからね。

当たり障りのないものから当たり障りのあるものまで提示してみたが、どれもが正解のように思えるし、どれもが間違っているように思える。おそらく特定は不可能である。「また今度にする」と言っているので、いつかは伝えるのだろう。

従って、結論としては、由比ヶ浜には比企谷にまだ何か伝えたいことがあった、という無難な解釈に落ち着かせて頂く。

見守るいろはと小町

比企谷と由比ヶ浜のやりとりを見て、いろはと小町は目を合わせてうなずき合う。何かを確信した、あるいは、何かを合意したようである。このシーンは原作にはない。

後に小町を部長とした奉仕部が始動するが、その契機になっているように思える。

平塚先生との会話

平塚先生との会話の前に、戸部が「ウェイ、チーズ」という謎の造語をウェイしている。

平塚先生「いいイベントになった」

平塚先生「なんだかんだ良いイベントになったじゃないか。あの大一番で大嘘吐いたときはどうなるかと思ったけどな……」

平塚先生は2期12話のバレンタインイベントでも「いいイベントになったじゃないか」と肯定的に評価していた。逆に、陽乃には「これが本物?」と低評価され、奉仕部は自問の渦に沈んでいくこととなった。だから、平塚先生の「いいイベントになったな」という肯定は、物語としての正解を示すものではない。

平塚先生は比企谷が何らかの前進をした際、あるいは前進が言い過ぎだとすれば、自分なりに考えて今までとは違う何らかの行動を起こした際、それを肯定するのだと思う。正しいか間違っているかは関係がない。

だから、この合同プロムについても物語としての正解かどうかはわからない。比企谷は後に「疑い続ける」「俺の青春ラブコメは”まちがっている”」と言っている。正解でも間違っていても、もしくは、正解なんてものがなくても、比企谷の問い直し続ける日々は続いていく。

すっとぼけはしたけど、嘘はついてない

比企谷「別に嘘は吐いてないでしょ、すっとぼけはしましたけど」
平塚先生「悪い男だ」

比企谷の言う「すっとぼけはしたけど、嘘はついてない」は、これからの比企谷の行動様式であるように思える。

比企谷は2期2話で嘘の告白をするという大嘘をついた。これは比企谷の中に奉仕部(あるいは雪ノ下)を「離したくない、その手に掴んでおきたい」という気持ちがあることに気付いてしまったが故の行動である。しかし、それは雪ノ下の怒りを買うことになる。3期のダミープロムも大嘘であるが、これについても雪ノ下と関わり続けたいが故の行動である。

雪ノ下とパートナーになることができた今、比企谷が嘘をつく理由はなくなったように思える。加え、何らかの嘘をつくことは(雪ノ下に対して)不誠実な態度であることを比企谷は理解しているだろうし、何より、ダミープロムという大嘘を実(まこと)に昇華させたことで比企谷の「嘘」の物語はようやく終焉を迎えたと考えることができる。

何か根拠があるわけではないけれど、そのように思った。個人的な感想である。

「青春とは嘘であり悪である……」

青春とは嘘であり、悪である。
青春を謳歌せし者たちは常に自己と周囲を欺き、自らを取り巻く環境のすべてを肯定的に捉える。
彼らは青春の二文字の前ならばどんな一般的な解釈も社会通念も捻じ曲げてみせる。
彼らにかかれば嘘も秘密も、罪科も失敗さえも青春のスパイスでしかないのだ。
仮に失敗することが青春の証であるのなら、友達作りに失敗した人間もまた青春のど真ん中でなければおかしいではないか。
すべて彼らのご都合主義でしかない。
結論を言おう。
青春を楽しむ愚か者ども、砕け散れ。

俺ガイル1期、1話冒頭部分

青春とは嘘であり、悪である。
青春を謳歌せし者たちは常に自己と周囲を欺く。
自らを取り巻く環境のすべてを肯定的に捉える。
何か致命的な失敗をしても、それすら青春の証とし、思い出の1ページに刻むのだ。
結論を言おう。

俺ガイル完、11話次回予告より

1期1話の冒頭部分が3期11話次回予告で繰り返されている。原作からの引用部分に違いはあれど、意味はだいたい同じである。

「結論を言おう」の後、原作1巻では「リア充爆発しろ。」と書いてあり、アニメ1期1話では「青春を楽しむ愚か者ども、砕け散れ。」となっており、3期11話次回予告では「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」という文字が表示される。特に考察はないが、違いを提示しておいた。

「謳歌せし者」は過去形

まず、本論にはあまり関係ないことだが、「青春を謳歌せし者」の「し」は過去・回想を表す助動詞(「き」の連体形)だから、意味としては「青春を謳歌し(終わっ)た者」ということになる。現在を表したいなら「青春を謳歌せる者」とならなければならない(たぶん)。だからこれは、青春を過ごし終わった者がそれを後から振り返った際の有り様を語っているとみなすことができる。

1期1話でも「謳歌せし者」と過去形になっていることに違和感を覚える場合、比企谷タイムリープ説を発動することが可能である(だめだ、何度繰り返しても雪ノ下との関わりがなくなってしまう!)。その説は、俺ガイルanother(続のディスク特典)という別の世界線を描いた作品がリリースされていることから補強できるし、ゲームというマルチエンディングが採用されている媒体の存在からも推測できるかもしれない。けれど、きっと比企谷はタイムリープしていないので、どうでもいいことであった。

「青春とは嘘であり悪である……」の意味は?

比企谷が定義する「青春」とは、11話次回予告を参照にすれば「青春=嘘=悪=常に自己と周囲を欺く=すべてを肯定的に捉える」である。

「嘘=悪」によって、否定的なニュアンスであることがわかる。「嘘=自分と周囲(の人)を欺く」はわかりやすい。欺いているから嘘である。そして、青春というフィルターを通せばどんな行為でも「肯定的に捉える」ことができる。

つまり、「青春とは嘘であり悪である……」の意味は「青春時代でなければ単なる失敗として冷静に否定されるものが、浮かれた青春時代であれば「それが青春」として肯定される。しかし、それは本来否定されるべき行為も含まれているだろうから「嘘」であり「悪」だ」という意味である。

比企谷はなぜ恥ずかしがったのか?

比企谷「うっわ、今聞くと超恥ずかしい」

恥ずかしがっているということは、今は「青春とは嘘であり悪である」とは思っていないということだろう。比企谷は当初「青春を謳歌せし者」たちについて一刀両断に喝破したが、今では「青春とは嘘であり悪である」という思想が比企谷の黒歴史になっている。折本への告白に続き、2つ目の黒歴史だ。「本物が欲しい」や「離したら二度と掴めねぇんだよ」などを含めれば4つくらいになる。

比企谷は間違いなく「青春を謳歌」した。それは平塚先生に「リア充爆発しろ」と言われていることからもわかる。比企谷の定義では「青春を謳歌せし者=リア充」だ(原作1巻)。

また、11話次回予告で「結論を言おう」の後に「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」と表示される。比企谷はその「まちがっている」を肯定的に捉えているようだが、比企谷の定義によれば、青春というフィルターを通せば間違いも肯定される。だから比企谷は青春を謳歌したと言える。

平塚先生と踊る

平塚先生「君と踊るのをすっかり忘れていた」

作中で比企谷が踊るのは由比ヶ浜と平塚先生だけである。雪ノ下、いろはは踊っていない。OPを含めれば由比ヶ浜と雪ノ下は踊っている。踊るという行為にどのような意味が含まれるのかはよくわからないのだが、下記に気付いた点を列挙する。

・由比ヶ浜と踊ったのは「お願い」を叶える一環だったが、平塚先生とはそういう理屈抜きで踊っている。

・原作によれば、由比ヶ浜と躍った時に比企谷は「誰も見ちゃいない(だから不格好なダンスでも気にしない)」と自意識の瓦解が示唆されていた。

・原作によれば、平塚先生と踊るこの時間を比企谷は「馬鹿みたいに楽しい」と感じている。

また、『星の王子さま』でお馴染みのサン・テグジュペリの言葉に「愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである」というのがある。比企谷と雪ノ下の関係は合同プロムという「同じ方向」を向いている時に生き生きしているように思われ、これからも何らかの対象に向かって手を取り合って邁進していく姿が容易に想像できる。

極論、比企谷と雪ノ下の関係は「(何らかの)仕事」が繋ぎ止めている、という見方もできるだろう。だからこそ、いろははその関係から脆弱性を読み取り、「あの二人が長続きするわけない」と推察したのかもしれない。

長続きするかどうかは未来の話なのでわからないが、サン・テグジュペリの言を参考にして「踊る」と「見つめ合う」を同義と解釈すれば、比企谷と由比ヶ浜、比企谷と平塚先生との関係は「愛」以外のもの、比企谷と雪ノ下の関係が「愛」であるとみなすこともできるだろう。1期の文化祭回で『星の王子さま』が引用されるので、原作者がこの愛に関する名言を知っていた可能性はある。

「本物」は見つかったのか?

平塚先生「君の本物は見つかったか?」
比企谷「どうでしょうね。そうそう簡単に見つかるものじゃないでしょう」

遡って原作9巻で下記のように書いてある。

「考えてもがき苦しみ、あがいて悩め。――そうでなくては、本物じゃない」
(略)
言葉の雨を叩きつけられて、胸の内にはいくつもいくつも声が溜まっている。けれど、それを吐き出すことはしない。これはきっと、俺が自分で考えて、醸造して、飲み下すべきものだ。
だから今は別のことを言おう、礼代わりの憎まれ口を。
「……けど、苦しんだから本物ってわけでもないでしょ」

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』9巻、P235−236

「苦しんだから本物ってわけでもないでしょ」は「礼代わりの憎まれ口」であった。だとすれば、「そうそう簡単に見つかるものじゃないでしょう」も憎まれ口みたいなものと考えることができる。

「あなたの言う本物っていったい何?」
「それは……」
俺にもよくわかってはいない。そんなもの、今まで見たことがないし、手にしたことがない。だから、これがそうだと言えるものを俺は未だに知らないでいる。当然、他の人間がわかろうはずもない。なのに、そんなものを願っているのだ。

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』9巻、P260−261

比企谷の「本物」は見つかったのだろうか。それは誰にもわからない。比企谷自身においては、2期8話で雪ノ下に「あなたの言う本物っていったい何?」と問われてうまく答えられないし、原作を参照すれば「俺にもよくわかってはいない」と白状しているから、そもそも比企谷が「本物」が何を指すのかをよくわかっていない。

だから、「本物が見つかる」とは「本物とは何なのかを比企谷が理解する」ことと同義だ。ただ、「本物とは何なのか」を比企谷が、あるいは誰かが、もしくは我々が理解できる時が来るようには思えないし、理解した途端に人生の意味が溶解するように思える。本物を求めることは、比企谷のアイデンティティーだ。

「本物とは何かを探す」と「人生の意味を探す」はかなり似ている。同じと言ってもいいだろう。我々において人生の意味がわかることはないし、わかった気がする瞬間があったとしても、また新たな問いが立ち現れ、もがき苦しみながら新たな答えを出す。それの繰り返し。

大人になってまで「人生の意味って何だろう?」と悩んでいる者は、おおよそ中二病として揶揄される傾向にある。そんな大きすぎて答えの出ないテーマは皆忘れて人生に埋没していく。それは良いことかもしれないし、悪いことかもしれない。

しかし、これは私の個人的な見解だが「人生の意味って何だろう?」という問いを忘れた時点で人生の意味はなくなる、と考えている。もちろん答えなどないし、あったとしても人それぞれだ。だから、生きて問い続けなければならない、と私は思った。比企谷にできるのだから、我々にもできるはずだ。

書いていたら熱がこもってしまい説教臭い文章で申し訳ない、と思っている。

一人の女の子に

平塚先生「共感と馴れ合いと好奇心と哀れみと尊敬と嫉妬と、それ以上の感情を一人の女の子に抱けたなら、それはきっと、好きってだけじゃ足りない。だから、別れたり、離れたりできなくて、距離が開いても時間が経っても惹かれ合う……。それは、本物と呼べるかもしれない」

ここで言う「一人の女の子」とはどう考えても雪ノ下のことである。

私は由比ヶ浜推しであり、由比ヶ浜が救われる世界線を見つけるために俺ガイルの考察をしているまであるので、ここで言う「一人の女の子」が由比ヶ浜であるという説を大胆不敵に打ち立てようと一瞬思ったのだが、さすがに無理があるのだった。この物語の結末に水を差す蛇足だ。

また、比企谷は「雪ノ下と距離が開いて時間が経ったら二度とその距離を埋められないで離れていくだけ」というような理由で雪ノ下に最後のアプローチをしたわけだから、「距離が開いても時間が経っても惹かれ合う」のは果たして雪ノ下のことを言っているのか? 由比ヶ浜のことなんじゃないかこれは、と一瞬思ったのだが、同じくこの物語の結末に水を差す蛇足だろう。

平塚先生の言葉はそのままなので、特に考察の余地はあるまい。「好きってだけじゃ足りない」と比企谷でも納得するような言葉選びがとても良く、「本物と呼べるかもしれない」と断定しないところもとても良いなと思った。

ずっと疑い続ける

比企谷「どうですかね。わからないですけど。だから、ずっと疑い続けます。たぶん、俺もあいつも、そう簡単には信じないから」
平塚先生「正解には程遠いが、100点満点の答えだな」

上述の通り、「本物を見つける=問い続ける=疑い続ける」は比企谷のアイデンティティーでありライフワークである。まさか比企谷が雪ノ下に「疑い続ける」と直接言うわけがないから、この「疑い続ける」は平塚先生にだけ発することが許可された言葉だ。もちろん、雪ノ下は比企谷の「疑い続ける」という態度を暗黙に理解しているだろう。

「正解には程遠いが、100点満点の答え」というのは、いろいろな考え方があると思うが、私は「(世間一般で言う)正解には程遠いが、(比企谷の結論としては)100点満点の答え」ということだと解釈した。もちろん、「疑い続ける」が絶対的に100点満点の答えというわけではない。比企谷が「本気で悩みあがき苦しみ考え行動した結果」として何らかの答え(ここで言う「疑い続ける」)という結晶をようやく錬成したことが100点満点だと言っている。

手を差し出す平塚先生

平塚先生「さよならだな」
比企谷「さよなら、先生」

平塚先生に差し出された手を比企谷は掴まないで、自力で立ち上がる。比企谷は平塚先生に数々のアドバイスを受けてきたが、もうさよならだ。平塚先生なしでこれからは歩まなければならない。その決意表明である。

それにしても「さよなら」という言葉はなんて切ないのだろう。もちろん、ここで放たれる「さよなら」は未来を描く力強い言葉だ。しかし、「さよなら」という言葉と共にこの長い長い物語が終わってしまうと思うと、なかなか感慨深いものがある。

リア充爆発しろ

平塚先生「リア充爆発しろー!」
比企谷「それ、古いですよ。十年前のセンスじゃねぇか」

上でも少し触れたが、「リア充爆発しろ」は原作1巻にある比企谷の言葉であり、それがそのままブーメランされている。だから比企谷はリア充であり爆発するかもしれない。

「十年前」というのは原作1巻が発売されてからこうして完結するまで約10年かかったというメタであり、ファンサービスみたいなものだろう。

雪ノ下との会話

雪ノ下「あなたが好きよ。比企谷くん」

比企谷は理屈、論理、誤魔化し、詭弁など、最大限に言葉を尽くし、それが空白を残しながら黒塗りになった。その空白部分を雪ノ下が「好き」と言葉にした。

比企谷と雪ノ下は出会った頃、似ていると感じていた。しかし、似ていない部分が露呈し始めると、お互いがお互いに失望することとなった。その似ていない部分を認め合い、こうして二人でいる。似ていないからこそ雪ノ下は「好き」と言葉にすることができる。あるいは、理由がなくても行動できる由比ヶ浜の影響を受けたと考えることもできるかもしれない。

出会った頃のキャンバスはきっと真っ黒だっただろう。お互いに失望していた頃のキャンバスは真っ白だっただろう。だけど今、黒塗りと空白のバランスの取れたキャンバスがようやく完成された。

二人が惹かれ合った理由は明示されていない。しかし、惹かれ合うのに理由はいらない。むしろ惹かれ合う理由がない方が現実的だ。我々のリアルな恋愛だって「なんか気になってなんか好きになってた」みたいなことのほうが多いはずだ。

だから、比企谷はめんどくさい雪ノ下に惹かれた、雪ノ下は腐った目をした比企谷に惹かれた。それが全てだ。

おい、マジかよ。ほんとにめんどくせぇなこいつ。
なにこれ、別の機会にまた改めて俺も何か言わなきゃいけなくなるんじゃないの? そういうのほんと辛いんですけど。マジでめんどくさい。
けど、死ぬほどめんどくさいところが、死ぬほど可愛い。

完全な余談であるが、比企谷は雪ノ下に「好き」とは言わないが「可愛い」は連発する。

原作14巻の考察でも少し触れたので簡単に言及すると「”かわいい”は日本語で唯一、対等な関係における褒め言葉だ」という考え方がある(『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』平田オリザ、講談社現代新書、P116-117)。

比企谷と雪ノ下の関係において「対等」というのが重要なのだと思った。依存でもない、主従関係もない、どちらにパワーバランスがあるわけでもない、どちらが一方的に好きというわけでもない。対等な二人の関係を表すために「可愛い」を用いるのは秀逸だなと思った。

部室

明日、夕飯食べに来ない?

雪ノ下「明日、夕飯食べに来ない? 母が良かったらって言っていて。……ずいぶん気に入られているのね」

比企谷がははのんにかなり気に入られていることを直接的に表すと同時に、雪ノ下とははのんの関係も良好であることが示されている。

奉仕部再始動

いろは「というわけで、今日からここは奉仕部の活動場所になります」

小町が部長、部員が比企谷と雪ノ下という奉仕部が、生徒会長であるいろはの職権濫用により実現した。いろはを生徒会長にしたのは比企谷だから、比企谷は何も言えない。ここでいろはに職権濫用させて無理矢理に奉仕部を再始動させるの凄いアイデアだなと思った。

由比ヶ浜の依頼

由比ヶ浜「えっと……依頼っていうか相談なんだけどね? あたしの好きな人にね、彼女みたいな感じの人がいるんだけど、それがあたしの一番大事な友達で……。……でも、これからもずっと仲良くしたいの。どうしたらいいかな?」
雪ノ下「お話を、伺いましょうか。どうぞ掛けて、長くなりそうだから」
由比ヶ浜「……うん、長くなるかも。今日だけじゃ終わんなくて、明日も明後日も……ずっと続くと思うから」
雪ノ下「そうね、……きっと、ずっと続くわ」

由比ヶ浜の依頼はまさにそのままでおそらく裏はない。奉仕部は持ち込まれた依頼を解決する部活である。だから、奉仕部(小町、比企谷、雪ノ下)は由比ヶ浜の依頼を解決しなければならない。

由比ヶ浜は本来、理由がなくても行動できる人物である。だけど、さすがに「あたしの好きな人に、彼女みたいな感じの人がいるんだけど、それがあたしの一番大事な友達で。でも、これからもずっと仲良くしたい」という意志を自力で行動するのは難しかったのだろう。だから、依頼という「理屈」に頼った、と言って良いかもしれない。比企谷と雪ノ下にとっては理屈返しの格好である。

比企谷は1期1話においては、比企谷は由比ヶ浜の「手作りクッキーを食べて欲しい人がいる」という依頼の真意がわからなかった。しかし、ここでは比企谷は由比ヶ浜の依頼をしっかりとわかっている。「あたしの好きな人=比企谷」にも気付いただろう。

11話の考察その2において、私は「比企谷は由比ヶ浜の恋愛感情に全く気付いていない」という叩き台あるいはアンチテーゼの意味を込めた考察をした。その考察に基づけば、比企谷は由比ヶ浜の想いをここで初めて知ることとなったし、そうでないとしても、間接的にではあるが由比ヶ浜は比企谷への想いを初めて「好き」と表明したことになる。

「ずっと仲良くしたいの。どうしたらいいかな?」が依頼である。由比ヶ浜は「ずっと仲良くしたい」と自分の意志を表明した。であれば「どうしたらいいかな?」に対する完璧な解決策が「きっと、ずっと続くわ」である。

いろはと小町の暗躍

由比ヶ浜を理論武装させて奉仕部に送り込む策略を計画したのはいろはと小町である。彼女たちはなぜそんなことをしたのだろうか。

まず、単純に奉仕部という空間が居心地良かったので継続したいといろはが思った、という理由があるだろう。小町も奉仕部3人の関係の中に入りたいと思っていた、なんなら、奉仕部に入部するために総武高校を受験したまであるかもしれない。

最終話の考察その1でも述べたが、もしいろはが比企谷を狙っているのであれば、由比ヶ浜と結託して雪ノ下をパートナーの位置から引き摺り下ろす大作戦を敢行するのが現状取り得る最善の手段である。もちろん、引き摺り下ろすなんて武力行使をするわけがないが、同じ目的を持つ由比ヶ浜と組むのが合理的である。だから、由比ヶ浜を奉仕部に送り込んだ(もちろん由比ヶ浜の背中を押す意味もある)。

小町は比企谷に相応しそうなパートナーとの人間関係を楽しもうとしているように思える。小町は比企谷とは逆で衒いがないように思え、楽しければそれでいいじゃん、という感じの印象を受ける。楽しそうだった奉仕部がなくなったのなら作ればいいじゃん。いろはの入れ知恵があったのかもしれないが、小町が楽しそうで良かった。

と、いろいろと考えたが、ここは論理でどうこうできるところでもないように思え、みんな楽しそうで良かった、という感想だけが残った。

「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」とは何か?

ああ、やはりだ。
やはりと言わざるを得ない。
――やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。

鮮やかなタイトル回収である。当然ながら、なぜ「まちがっている」のかが焦点である。

青春とは嘘であり、悪である。
青春を謳歌せし者たちは常に自己と周囲を欺く。
自らを取り巻く環境のすべてを肯定的に捉える。
何か致命的な失敗をしても、それすら青春の証とし、思い出の1ページに刻むのだ。

俺ガイル完、11話次回予告より

上記引用文の最も簡素な要約は「青春(ラブコメ)とはまちがいである」となる。

「やはり」とは、デジタル大辞泉によれば、下記である。

1 以前と、また他と比べて違いがないさま。やっぱり。
2 予測したとおりになるさま。案の定。やっぱり。
3 さまざまに考えてみても、結局は同じ結果になるさま。つまるところ。やっぱり。
4 動かずにいるさま。

4は稀な用例なので省く。

1〜3の意味を全部入りで「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」を解釈すれば「俺だけは正しい青春を過ごすものと思っていたが、やはり他の青春を謳歌する者たちと同じようにまちがった青春になったし、まちがっているが故にやはりまたやり直しさせられることになったなぁ」という意味になるだろう。

なかなかわかりやすくて自分としても気に入っているのだが、どうだろうか?

 

▼文中で取り上げた本

 
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